大学生ふたりに写真を撮りに行こうと誘われたので行ってきた。
ふたりは一眼レフ持ちで、何ミリのレンズがどうのこうのときゃっきゃしてる系の方々なので、一緒にいくのがミラーレス一眼と付属キットのレンズしか持っていないぼくでよいのかしら感はあったのだけれど。でも行ってよかった、楽しかった。
前の『TLX-TAB7S を買って電子書籍生活を始めた』の続き。
前のエントリではこんなことを書いた。
ケースと覗き見防止シートが欲しいんだけど、選択肢は、
- ボタンや端子やカメラが埋まるのは諦めて、汎用品や Nexus 7 用のを使う
- うまい位置に穴があいているケースを探す
- ケースなしで過ごす
というあたりですね。スマートフォンは諸々の事情でケース無しで使う派だけど、このサイズのタブレットだとケースが欲しいから 3 は無いなあ。
そんな状態でヨドバシカメラに行ったら、ブライトンネットさんの BM-NE7FLSTD/BK っていうちょうどよいのがあった。
前の『ScanSnap iX500 を買って自炊生活を始めた』の続きというか関連。
自炊するならその電子データを読める端末が欲しいよね、ということで買ったのが TruLuX さんの TLX-TAB7S。
いきなりまとめると、
な、感じ。ちなみに Nexus 7 は持っていないので公称値やらほかのひとのレビュー記事やらを参考に書いています。
本職が IT 屋さんだからといって何でもかんでもデジタルが好きなわけではなくて、もともとぼくは “本を物理的にこわすのは抵抗がある” という立場のひとだった。まわりのひとからシートフィードスキャナを買ったという報告を聴いても、ああ買ったのそうなの、本こわしちゃうのね、というくらいにしか思えなかったくらい。だから積極的に自炊関連の情報を漁ることもなかった。
イヤホンのイヤチップ、軽視されがちだけど実はいろいろと種類がある。
普通のシリコンのでも堅いのと柔らかいのがあるし、シリコンの中にスポンジが詰まってるのもあるし、シリコンじゃなくて耳栓みたいな低反発フォームでできたのもある。
いよいよ建て替え工事がはじまったらしい。
そろそろはじまるとながいこと言われては来たものの、その気配もうかがえないまま数年。今まで校庭として使われていたところ──いつか校庭ではなくなるところ──に、やっと資材が置かれて、組み立てられて、そんなところからようやく進行中と聴く。
そんな中、友人が、すてきな本をつくった。
友人の校内のスケッチとともに綴られる、塚原先生の二十六篇のエッセイ。消えゆく校舎のひとつの遺し方。変化を前向きに受け入れることで新しく生まれる価値もある。
2003 年、ぼくが多摩高校の 48 期生として入学してから、この四月で十年がたつ。いまでも数月に一度は高校に行っているから、姿を消しつつある母校をいまさら眺めたところで語るほどの懐かしさも感じないのだけれど、それでも少しばかりの寂しさはおぼえる。
トイレが外にしかないような、21 世紀にもなって信じがたい環境、それでもよい校舎だったよねと、古い友人に会うたびに語られる学び舎。
でも校舎への評価なんてものは、結局はそのまま自分の高校生活への評価だ。よい校舎だと今思えているのは当時その校舎で生活するのが楽しかったからで、だから友人が感慨深げによい校舎だったなあと語るのを聴くと、ああこのひとも高校生活が楽しかったんだなあと、他人のことながらうれしくなるものである。
『多摩高校』というある種のシステムを形成する要素のうち、『校舎』のしめる割合はどのくらいのものだろう。いまのあそこから校舎 “だけ” が新しくなったとして、それ以外がどう変わるのか。勉強するだけなら校舎なんてどうでもよさそうだけど、知恵とか知識とかそんなくだらないものの伝達よりも “生き方” をつくる方が大事だと思っているので、その意味ではインフラストラクチャの更改はじんわりとした影響もたくさんあるだろうなあと。
ながく続くものが必ずしも最良かといえばぜんぜんそんなことはなくて、もっとよいものはたくさんあるはずなんだけど、そうかといって新しくしたら必ずもっとよくなるとも限らない。風邪をひいて薬を飲まされて、それでその薬が効いたかと聴かれても、飲んでいない場合と比較できないからわからないと、残念ながらそう答えるしかないのが現実。
何十年もあと、あたらしい “校舎” を通じて思い出を語る彼らの顔が、さいこうに幸せそうで楽しそうだといいなあと、ぼんやりと思いつつ。
ページの中でゆるやかに描かれる高校にふれて、ようやくぼくも卒業できる気がした。
エントリ公開後、本の画を担当した友人からこんな連絡をいただいた。
ポートフォリオとして携わった作品をまとめているようで。高校当時からぼくとはぜんぜんちがう目で世界を見ているなあという感覚はあったのだけれど、こうやって実際に制作物をみると本当にそう思う。そんなわけで、興味あればこちらもどうぞ。
vSphere 環境をさわるとき、ふつうは vSphere Client でがちゃがちゃ操作する。そのうち慣れてくるとだんだん PowerCLI 環境に手を出すようになって、CLI 環境でいっぱいの VM をまとめて操作できてやばいこれちょう便利うひょーってなる。なるんだけど、それにも慣れると、もともと提供されてるコマンドレットって地味にかゆいところに手が届かないことにぼんやりと気付き始める。で、細かい操作をしようとすると、結局は定義済みのコマンドレットを卒業して、.NET インタフェイスをさわったり View オブジェクトをこねくりまわしたりしないといけないということを悟る。
ここまで来ると Web でぐぐって出てくる情報もだんだん減ってきて、vSphere Client ではすぐできるのに PowerCLI ではどう書けばいいのやらさっぱりだなあ、というところがぽろぽろ生まれてくる。
ある操作をするためのインタフェイスに GUI と CUI がある場合、(VMware に限らず)だいたいは CUI の方が原始的で、原始的だからこそ細かいところまで “なんでもできるはず” という幻想を抱かせてくれる。だから “GUI でできるのに CUI でできない” という状況に遭遇すると、GUI だって結局中で API 叩いてるんだろ、コード教えろやこのやろう、的な気持ちになること請け合い。どうにも納得できない。
このエントリで紹介する VMware Onyx は、まさにその『GUI ではできるのに CUI でどうやるのかわからない』を解決してくれるすばらしいツールなのでした。
続きを読む学年が上だからといって、下の代に対して “万能” である必要はない。
万能であろうとすることすら必要ないし、万能であるかのように振る舞うことも、万能でないことを隠そうと取り繕うことも、やはり不要である。
『司会を務めさせていただきます』
『発表させていただきます』
『書かせていただきます』
『出版させていただきます』
『販売させていただきます』
『消灯させていただきます』
『発車させていただきます』
『開催させていただきます』
とか、そんなに謙遜してどうするのっていうくらい、オトナのしゃべる語尾に、『させていただきます』が当たり前のようにつくようになって久しい。謙遜というか卑下というか、とにかく自分をおとしめすぎててきもちわるい。これは文法的な話じゃなくて感覚的な話ね。もっとドシッと構えてスマートに振る舞えないのかなってその言葉に触れるたびに思う。