新堀芸術学院の春期定期公演で、ギター合奏と PA について考えた

ちょっと前の話になるけれど、2 月 11 日に、専門学校国際新堀芸術学院に所属する在校生の有志で行われる定期公演 ((“有志” という概念に “定期” はあまり似合わない気がしたけど))に行ってきました。

本家たる新堀ギターフィルハーモニーオーケストラ(N フィル)とか新堀ギターアンサンブル(NE)の公演には何度となく足を運んでいるけれど、新堀学院の学生さんたちの演奏を聴く(観る)のは初めての機会。”学生版新堀” という意味では NKG のコンクールでの演奏が近いのだろうけれど、あれは新堀グループの先生方が指導してるってだけで、新堀学院の学生というわけではないですし。

さて、新堀さんところの学生ということは、将来的に N フィルなり NE なりを(少なからず)目指している方々である(たぶん……)わけで、そういう意味ではこれは N フィルなり NE なりの “あの” 演奏が作られる “途中経過” が観られる演奏会でもあるわけです。学生が “あれ” を目指したときにどうなるのかというのは NKG のコンクールで観てはいたものの、はてさて本家でがっつり学んでいるとどうなるのかなあと楽しみなのでありました。

が。

結局、PA ががっかり品質すぎて、演奏云々以前のところで耳が止まってしまいました。

このエントリは、そんなお話です。ギター合奏と PA について。

パンフレット

エレキギターに代表される “電気的な増幅ありき” の楽器とちがって、クラシックギターはそれ単体で電気的な増幅なく音楽を作れる楽器です ((もちろんどちらが優れているという話ではなく、そういう楽器であるというだけの話です、念のため))。だからクラシックギターを “クラシックギター” として使う以上、本来は PA が無くても音楽として “完成” させられるはずだし、”完成” されているはずでした。

PA が無くても完成されているのだから、それでも PA が登場する理由は、”生音だと小さくて聴こえないから” というごくごく常識的なところに行きつくはずで、そうすると PA に求められる仕事は、既に “完成” されている音楽を、極力 “そのまま拡大する” ことだけです。ここでは過度な脚色は御法度で、『演奏者が作った響き』『演奏者が意図した響き』をそのまま観客席に届けることだけが考えられるべきだ、というのがぼくの考え。

今回の公演で入っていた PA では、全奏者のギターすべてにコンタクトマイクをつけていました ((新堀さんところは今回に限らずだいたいこのスタイルですね。人数が多いときは前列とか主要メンバにだけマイクをつけてあとは生音です))。スピーカから出てくる音は当然、全ギターにつけられたコンタクトマイクの拾った音を、PA 担当さんがコンソールでミキシングしたもの、です。ホールのキャパシティを考えると、生音が届くのは客席の前のほうの一部くらいで、その一部ですらスピーカからの音のほうがおそらく大きく聴こえるから、生音の出番は今回はもはや無いようなものです。

さて。

演奏者が舞台上で、至高の音楽を至高のバランスで作り上げていたとします。演奏者は自分の耳と感覚を信頼して、隣のひとといっしょに、指揮者といっしょに、向かいのひとといっしょに、舞台の空気の中に自分の音をそっと置きます。そこにはギターならではの芳醇な響きがあって、そして独奏では味わえない合奏重奏ならではの重厚さや繊細さがあって、それはさらにホールの自然な残響を伴って会場中にひろがります。その空気の中に自分が居る感覚、空気を自分が作っている感覚こそが至高で、また演奏者のこのうえない喜びと快感と、楽しさの源泉です。

ところが、PA のマイクは、そういうオイシイ響きはあまり拾ってくれません。コンタクトマイクですから、ギターに片耳をぺたっとくっつけて聴いている状態に近い。ギターに密着しているから、拾うのはギターから外に出た音ではなくて、生々しい “振動” そのものです。だから本来拾わなくてよい音、離れていれば聴こえないのに密着しているからこそ聞こえてしまう音、本来楽器として響くようにはできていない音——たとえば布のこすれる音とか、ギターにさわってぺたぺたする音とか、弦をこする音——まで無関係に拾ってしまいます。そしてそれはギターの音だろうがただのノイズだろうが、機材にとっては無関係で、ひとしく拡大されてスピーカから流れてきます。さらにマイクはモノラルで、スピーカは二つあるから、無理矢理説明すると、スピーカのコーンの位置に、ギターにつけられたマイクの位置の空間が全ギター分重なり合って存在している状態、みたいな感じです。そしてそれが左右にひとつずつある。さらにマイクからスピーカにいたるまでに通る機材ごとの特性で、特定帯域ばかりが強調されたりある音が全然拾われなかったりなどの影響も加わります。

だから、舞台上で作られているひびきと、スピーカから流れている音は、コンタクトマイクだけをつかってどうにかしようとする限り、もうまったくの別物です。舞台上で生で作られる音は、舞台上で生で聴いてこそ最高の音で、そしてそれはマイクを通してスピーカから流したときに最高の状態になる音とは、まったく違うものです。人間の耳にきこえるそのままを電気的に取り込むのはひじょうに難しいのです。逆に言えば、人間の耳とそれを解釈する脳は信じられないくらい優秀です。

しかも合奏です。演奏者同士で舞台上でどれだれ連携してどれだけ繊細にバランスのとれた音を出していようが、PA 担当さんのミキサにはギターごとに別々の音として入ってきます。それをどう料理するかは PA 担当さん次第で、客席で聴こえる音は、だから “舞台上でつくられた音” ではなく、あくまで “PA を通した音” でしかありません。PA は、演奏者の緊張感やバランス感覚とはまったく別の次元で存在します。観客に聴こえる音のすべてを操る、いわば神です。

マイクが拾ったそのままを混ぜて流されたら、ひたすらにぐちゃぐちゃです。何を弾いているのかわかったものではなくなります。

だからこそ PA には、精緻なバランスで左右へ振り分けたり、重なって混ざってしまう音がきれいに分離するようにイコライジングしたり、要らない音を削ったりして、舞台の上で作られているはずの音を再現する、そのように “細工” するスキルとセンスと責任が求められます。すでに完成されている音をそのまま届けるというのは、単にマイクから入ってきた音をそのまま垂れ流せばよいというものではないのです。完成されている音を、”そのままであるかのように聴こえるように” 調整してスピーカから流す必要があります。

帰りに食べた

あの組織が、ぼくみたいに『PA がなくても音楽として完成している』という考えではなく、『PA があって初めて音楽として完成する』という考えでいる可能性もあります。クラシックギターを、旧来の “クラシックギター” としての枠組みにとらわれずに、『電気的な増幅ありきの楽器』として新しい使い方を模索しているというのであれば、それはそれでおもしろそうだし、先が楽しみな変化です。

が、そうならそうで、なおさらそれなりの音作りをしてほしかった。あれではただ『生だと音小さいからマイクつけるね』『全部に同じマイクついてるし全部同じ音で出しておけばいいよね』みたいな、雑な思想にしか見えませんし聴こえません。哲学を感じない、みたいなアレです、イケてないです。

意図的にリバーヴをかけていたようにも聴こえました。音楽ホールにおいては禁じ手とも言える気がします。響きって、いやいやそういうのではなくてね、という感覚。もしかしたらフィードバックの結果かもしれないけれど、それならそれで調整はするべきで……。

そしてギタロンの PA がとくにひどかった。ギターアンサンブルを録音したことがあるひとならだれでも一度は悩まされるあの超低音域のぼわつき、耳に迫り来る音圧のことです。今回はあのぼわぼわぼわぼわしたのが大音量でホール中に響き渡ったおかげで、それ以外の音が完全にぶちこわしでした。マイクにマイクの性能以上のことをさせてはいかんのです。

おいしかったです

もしあのコンサートが、中の方々にとって『大成功』で、そして内部で『とてもきれいな音だった』と評価されているとしたら、その中にいる学生さんたちは、本来の “クラシックギター” としてのクラシックギターの音づくり、響きづくりを、まともに学べないことになってしまう気がします。純粋に “クラシックギター” を学びたい方々にとっては向かない環境なのかなと。新しい楽器としてのクラシックギターを学ぶなら、逆にあそこしかないんでしょうけれど。なんていうか、『”クラシックギター” の専門学校』ではなくて、『クラシックギターを含む様々な楽器群を道具として使った総合芸術の専門学校』っていう印象でした。

“クラシックギター” の音づくりはそんな感じだったので、客席にいたまま『マイクで拾われる前の響き』を脳内で取り出すのも難しくて、演奏面でのコメントはとてもしづらいという結果になりました。

ただ、断片的に見えた限りでは、独奏は丁寧だったし、合奏も楽しそうで、たぶん舞台の上の彼らにとっては『よい音楽』ができていたのだと思います。本来は、そういう『よい音楽』を、練習とは比べ物にならないほどの響きで楽しめるはずの場がこういう公演でありコンサートホールであるはずなのだけれど、それが PA に乱されてしまってひじょうにもったいない ((舞台上にモニタスピーカもあったので、演奏者も演奏しにくくなってたのではないかしらという心配もありました))なあと、PA なしで聴きたいなあと、そう思わされるのでした。生音でじゅうぶんひびくホール ((藤沢校の楽友ホールもギターに向いてない音だし、環境がなかなか難しいのかな))で、しっかりがっつり生音で演奏会をしてみてほしいところです。

皮肉なことに、エレキギターやドラム、キーボードなどの演奏、いわゆる “バンドサウンド” のときの PA はとてもイケていました。正直、”クラシックギター” は使わないほうがすっきりするんじゃないの、とさえ。

学生の手作りな演奏会だし、そこにそう多くのことを求めてはいけないのも承知しているけれど、PA 卓に立っていたのがおじさまだったので学生云々はあまり関係がないのかなと。もしかしたら PA 卓のおじさまは学校側から渡される 2 ミックスを単に流すだけでいいですって指示されたホール側の方だった可能性もありますが。

ギター全部にマイクをつけるのではなくて、例えば三点吊りの音をそのまま流すとか、舞台手前にアンビエンスマイクを立ててその音を流すとか、そのほうがずっとよかったのではないかと思います。”マイクの音” ではなく、ぼくは “演奏者の音” が聴きたかったです。演奏者個人個人のポテンシャルは大きそうだっただけに、PA の残念さが全部を残念にしてしまっていて、それがとても残念でした。

ギターは音量の小さい楽器ですし、大きなホールで演奏をするなら PA は欠かせません。それでもよい PA は、PA の存在を感じさせないほどにほんとうによいものです。ギターひとつひとつの音がそのまま大きくなったような、そういう PA も世の中にはたくさん存在します。

演奏を活かすも殺すも PA 次第と、えらいひとは言いました。PA が悪ではなく、演奏の魅力を最大限に引き出すものであってほしいと、そういうことを考えた一日でした。

ぼくが 2013 年に聴いたり観たり出たり手伝ったりした演奏会まとめ

いろいろいった気になってるけどどれだけ行ったんだっけね、というまとめ。まとめたら思っていたより行っていたのでうれしい。

来年も同じくらいかそれ以上には行きたいけどどうなるかしら。

横浜みなとみらい大ホール

1 月 20 日(日)- 原善伸デビュー 40 周年記念ギターリサイタル@ヤマハホール

先生にお誘いを受けて聴きに。歴史を感じる演奏。ベテランがベテランたる理由はやはりあるのだと思うことしきり。

2 月 24 日(日)- M’s class ピアノ発表会@大倉山記念館

音楽の才能があふれすぎている高校生の友人がピアノの発表会に出るというので聴きに行ってきた。ぎたさんのぱとり勢もゲストで登場。ピアノの弾きっぷりがかっこよかった。

2 月 27 日(水)- 横浜国立大学音楽専門領域卒業演奏会@横浜みなとみらい小ホール

作曲ゼミの友人が卒業制作で書いたギター五重奏曲の演奏者として参加。あと録音やさん。縁ってのはおもしろいものですね。よい曲だったしもうひとりの作曲ゼミの子の作品もすごくイケてた。平日だったから会社休んだ。

3 月 31 日(日)- 北杜高校ギター部スプリングコンサート@北杜市オオムラサキセンター

ずっと行きたかった北杜さんの演奏会。ようやく行けてほんとうに楽しかった。いろいろとごあいさつもできて、車を出して遠出した以上の価値はあった。

4 月 4 日(木)- 多摩高校ギターアンサンブル部定期演奏会@横浜みなとみらい大ホール

かつて自分がいた部活の定期演奏会。会社を休んで朝から運転手兼写真撮影担当兼録音担当。毎年の楽しみのひとつ。来年からはお客さん?

5 月 13 日(日)- ギターフェスティバル@代々木上原けやきホール

長谷部先生の門下生の方々の演奏会。ゲストのクアトロ・パロスさんを聴きに。さすがのクオリティ、安心して楽しく聴ける四重奏。

6 月 8 日(土)- 東京農業大学&専修大学ジョイントコンサート@多摩市民館

フォロワさんが出るとのことだったので聴きに行ってきた。ザ☆大学のノリ! みたいな演奏会。たのしそうだった。ちょっと形式をだいじにしすぎな感もあって、もっと自由にしていいのになあとは思った。

6 月 9 日(日)- NHK 交響楽団定期演奏会@NHK ホール

いわずもがな。聴きに行きました。惑星さいこうです!

6 月 12 日(水)- サントリーホール室内楽アカデミーゲストコンサート@サントリーホールブルーローズ

プロアマ混在でいろいろなひとがいろいろ弾く室内楽の演奏会を聴きに。アマチュアといっても音大生なんだけど、それにしてもプロとの差が……! はからずもベテランと若手の聴き比べになってしまった感。

7 月 13 日(土)- 洗足学園音楽大学 NATSUON! 2013 クラシックギターコース演奏会@洗足学園音楽大学

録音担当兼お客さんとして。音大生によるギターアンサンブルというめずらしい演奏会。各人のポテンシャルはすごかったけど、楽器にも新しい先生にも慣れていない感が出てて、ちょっと新鮮。

7 月 13 日(土)- ソニー吹奏楽団定期演奏会@大田区民ホールアプリコ大ホール

聴きに。上の洗足さんと同じ日だったので、朝は洗足で録音の準備して、こっちに移動して数十分だけ聴いてまた洗足に戻る、というスケジュールだった。エヴァンゲリオンを聴けたので満足。吹奏楽もかっこいいですね。

8 月 25 日(日)- 全国学校ギター合奏コンクール@横浜みなとみらい大ホール

毎年の楽しみのひとつ。例年どおりに録音やさん兼ステージ関連いろいろスタッフとして参加。出場校の中高生にも知人友人が増えてきたので、どの学校も他人の気がしない。袖でヘッドホン越しに音を聴くのが毎年恒例。来年のぼくはどういう形で関わるのかしら?

9 月 7 日(土)- 多摩高校ギターアンサンブル部文化祭コンサート@多摩高校

演奏を聴きに。引退した 3 年生やそれより上の OB 勢ともわちゃわちゃできるよい機会。たのしい。

9 月 22 日(日)- 相模原中等教育学校クラシックギター部オータムコンサート

演奏を聴きに。実は構内に入るの初めてだった。ここでまたお知り合いが増えました。『もしかしてくろいさんですか!』『はい!』がたくさん。うれしい。

10 月 6 日(日)- 全日本ギターコンクール合奏部門学校の部@江戸川区総合文化センター

NKG 主催。昔は行くとアウェイ感すごかったし社会科見学感あったけど、最近は平気な顔をしてこっそり客席におさまっている。目指す方向がいろいろちがっていておもしろい。行くといろいろ考えてしまいますね。そして語り合う夜の Togetter ができあがる。

10 月 6 日(日)- アコースティックギターサミット 2013@めぐろパーシモンホール

今年からはじまったイベントらしい。誘われたのでお客さんとして行ってきた。昼間からいろいろワークショップなど開かれるもよう。夜のコンサートメインでいった。普段絶対いっしょに並ばないであろうメンバが順に演奏する感じ、贅沢感はんぱない。来年も行きたい。

10 月 13 日(日)- アンサンブル・ジターノオータムコンサート@武蔵ホール

フォロワさんにお久しぶりに会いに行きがてら聴きに。かわいいきれいなホールだった。少人数でめいっぱい楽しむ感覚、観ていてたのしい。ぼくらのコンサートにも何名か来ていただけたのでうれしいです。

10 月 14 日(月)- 内本信裕ギターリサイタル@和光大学ポプリホール鶴川

高校の先輩のデビューコンサート。ドイツでギターを学んでいるだけあってさすがの安定感。きっちりキメてきてきもちがよい。二重奏も三重奏もたのしかった。

10 月 19 日(土)- イ・ムジチ合奏団@サントリーホール大ホール

もう何回目かわからないけど何回聴いてもさいこうだ!! 生音とはかくあるべき、というのを強烈に魅せつけてくれる。コンサートマスタが完全にアンセルミさんになって、また雰囲気が変わってきてイケイケ感あって楽しいし、アンコールの赤とんぼはもうなんていうかほんとうに全身にしみわたってすばらしい。ああいう音が出したいなあと心の底から思える音。お金かかるけどまた日本に来たらまた行く。

10 月 27 日(日)- 日本ギター合奏フェスティバル@練馬文化センター小ホール

クアトロ・パロスさんと UnisOno さんを聴きに。といいつつほかにもいろいろオイシイ合奏団があって見た目にもおもしろい。加藤先生の団体に惹かれた。この日の夜は多摩・相模大野・所沢・芝各校の OB やら元講師やらが入りまじった飲み会になっておもしろかった。

10 月 28 日(月)- クアトロ・パロスジョイントコンサート@GG サロン

クアトロ・パロスさん、東京 GE さん、前日気になったザ・ステアさんを聴きに会社帰りに寄った。オンゲンカーさんは初見だったけど、いちばん右の彼がイケてた。2 曲目かっこよかった。ゲストのオルガさんは私服感がつよくて、中島先生のほうが目立ってたよね……? パロスさんが演奏した佐藤弘和さん作曲の雲の詩って曲がさいこうでした。ああいう情景描写系は大好物です(三千院とか)。

11 月 3 日(日)- JAEM 秋期ギター発表会@和光大学ポプリホール鶴川

普段いっしょに合奏をしている方々や関係各位の、普段とはちがった一面が観られる場所。お客さんとしてお邪魔しました。レベル感いろいろだったけど音はよい。ぼくも出ようかなとか。

12 月 1 日(日)- 芝学園ギター部ウィンターコンサート@芝学園

これも前からいちど行ってみたかった演奏会。東京タワーのふもとまで聴きに。昔聴いたときの強烈なインパクトはやや薄れた印象。ちょっとおとなしくなった? ノリはいいし観ていて楽しいけど、魅せどころってののつくりかたがむずかしいそうだなと。そして音響面がやっぱり場所柄きびしい……。自分の学校の中に演奏会が “できてしまう” 施設があると外に出にくくなるってのはあるのかもだけど、響きのいいホールでやるとたぶんもっと音よくなるんじゃないかしら、と。でもなんていうか、心の底から楽しんでます感が出ててすごくよい。たのしい。

12 月 8 日(日)- 洗足学園音楽大学 FUYUON! 2013 クラシックギターコース演奏会@洗足学園音楽大学

夏につづけて冬の演奏会を聴きに。夏のころの “不慣れ感” はだいぶ薄れて合奏ならではの音のつくりかたにもなれてきたのか、安定感があった。もう少し物理的に高音系の楽器が増えるとバランス取れそう。この日の竹内先生の Surge III 全楽章は日本初演。Surge V で落ち着きを見せた “竹内節” がややおとなしめながらも復活していて、よい曲だった。

12 月 15 日(日)- 新日本ギターアンサンブル ギタークリスマスコンサート 2013@和光大学ポプリホール鶴川

出演。ひたすらに楽しかった。詳細は 前のエントリ で。

12 月 21 日(土)- 新日本ギターアンサンブル ギタークリスマスコンサート 2013 シルバーマウンテンオープニングコンサート@洗足学園音楽大学

出演。攻略しがいのありそうな会場。大学側のスタッフさんが大学として公式に録画やら録音やらしてくれていて、そのうち YouTube に全編 1080p で載るらしい。うれしいやらこわいやら。

以上!

抜けがあるかもしれないけど、今のところぜんぶで 25 でした。平均でひと月に 2 回、なかなか充実してた感があってよいかんじ。行ったら行っただけ世界も視野も広がるし、純粋に楽しいし、そしていろいろお勉強にもなる。弾き方、音のつくり方。ギターにかぎらず、ピアノだって弦楽だって吹奏楽なんだってギターに活かせる要素ってあるはずだし。

来年もぶいぶいいろいろなところに行きたいので、こんなのあるよこんなのやるよ、あんなのあるらしいよ、その他もろもろお気軽にお声かけください。万難排してどこでも行きます。

全国職場バンドフェスティバルで、さいこうにイケてる吹奏楽を聴いてきた

全国職場バンドフェスティバルというイベントに誘われたので行ってきた。3 月 2 日の日曜日、会場はサントリーホールでした。一般人が上に乗れる機会はそうそうない本気で日本有数のホールですが、職場で吹奏楽をやっていれば乗れるなんてずるいと思います!

プログラム

白状すると、吹奏楽って、出身中学やら出身高校の部活のものくらいしか知らなかったのです。それ以外にもたぶん聴いてるはずなんだけど記憶に残っていなくて。で、吹奏楽部の演奏って、演奏中に立ったり座ったりする “吹奏楽っぽいアレ” とかけっこう “やらされてる感” があって、いまいちイケてないなーっていう印象、偏見が抜けなかったのだけれど。

いやはや、なんていうかもうごめんなさいです。吹奏楽ってほんとうはこういうものだったのね。ここまでアツい音楽だとは思っていなかった。うまいところは卑怯なまでにうまい。さいこうでした。繊細な表現も迫力のあるダイナミクスもリズム感も、音づくりも。

全国職場バンドフェスティバルというのは、全国で活動する職場バンド、つまるところ企業の中にある吹奏楽部みたいなの集まって、合同で演奏会をしましょう、というもの。今回で 3 回目? らしく、まだ歴史は浅いもよう。それでもバターサンドの六花亭さんからトヨタさん、NEC さん、ソニーさん、天下のヤマハさんまで 11 団体も集まって、たっぷり 4 時間も演奏があったので、ひじょうにボリューミィでした。顔ぶれをみるかぎり、来年以降もながく続いていくイベントになるんだろうと思います。

何回もきてるけど来るたびに最高のホールだと思う

そんなわけで、ぼくは吹奏楽に関してはドがつくほどの素人だったので、プログラムを見ても有名どころ以外は知らないのばかりだったのだけれど。最初の団体からわりと『あれ、吹奏楽ってこんなイケてるものだったんだっけ』みたいな戸惑い感あふれ出る感じでした。ほんとうはかっこうよいものなんですね、吹奏楽。

107 人でステージに乗った曲もあって、これが圧倒的なダイナミクスと派手な指揮でさいこうのパフォーマンスでした。指揮が派手でも演奏がしょぼしょぼだとひじょうに滑稽で嫌味な舞台になる ((そんな演奏はギター合奏でいくつも観てきたのよね))ものだけれど、演奏ががっつり指揮に合わせて派手にやってくれていたので、相乗効果ですごく濃密でエネルギッシュな空間になっていました。

吹奏楽における指揮者の役割、演奏者や音楽との関係、距離感は、いわゆるオーケストラの指揮のような “崇高な” ものとは、すこしちがうようです。もっと距離が近くて、即時性があって、ほどよいパフォーマンスであること。いいものですね。聴衆側に音楽が寄ってくる心地よい感覚があります。

吹奏楽って、コテコテのクラシックでもなく、ポップポップしているわけでもなく、ほどよくフォーマルでほどよくカジュアルなので、”音楽” の中でもおもしろい位置にいると思います。オーケストラとも軽音楽ともちがう、いいとこどりしたオイシイ位置とでもいうか。

この “ほどよくフォーマルでほどよくカジュアル” な居心地のよさが演奏から感じられると、吹奏楽っていうものがとたんに親しみやすい世界になるのかもしれないですね。中学や高校の吹奏楽は、たぶんこの辺の空気が全然なくて、ただ音を出しているだけだったりがちがちに緊張しているだけだったりで、それでいて立ったり座ったり右むいたり左むいたりスイングしたりの “ノッてる演技” をしようとしちゃうものだからよくなかったのかなと。この違和感のおかげで楽しめなくて苦手だったのかなと、そんなことを考えた。昔の感覚だからあんまり覚えてないけど。

いりぐち

“ダンス” で攻めてきたソニーさんのワルツは、とてもワルツワルツしていてすてきでした。ワルツの三拍子をワルツらしくうたいあげるのって難しいのよね。ズンチャッチャ、とよくいわれるけれど、この『ズンチャッチャ』にこめられた一拍めと二拍めと三拍めの感覚の違いって、おそろしく深いものであるようで。頭でわかるのではなくて、ワルツだけにほんとうに身体でわからないと演奏できないと思う。同じ曲をギター合奏でいままさに練習中なこともあって、はからずもひじょうによいおべんきょうになりました。こううたえばいいのね、ぼくもがんばります。

極めつけは大トリのヤマハさんです。パンフレットには『なかには自身で制作した楽器を演奏する団員もいる』とか書いてあるし、MC にインタビューを受けていた指揮の須川先生も『8 割くらいが楽器の設計か研究か制作をしているひと』みたいなことをお話されていたので、はじまる前からもはや卑怯というかチート感はんぱなかったのだけれど、演奏もやっぱり卑怯なまでにはんぱなかった。

一曲目はもともと分かりにくい曲だったこともあってふわっと終わってしまった印象があって、ヤマハさんでもこんなもんなのかなーって感想をもったのだけれど。

二曲目の Sing Sing Sing の、冒頭のパーカッションが入った瞬間、『あ、これ本気ですごいのくる』と直感で確信して、そこからテンションあがりっぱなし。そして事実、本気ですごかった。

おひるの様子です

Sing Sing Sing という曲自体、じつはあまり好きではなかったのです。というのも、ぼくが高校生のときにギターで弾いたのがひじょうにつまらなかった(ごめんなさい)から。吹奏楽の定番なのは知っていたけれど、だからプログラムをみたときもさいしょはこんな定番曲じゃなくてもっとなんかイイやつやってほしいなーみたいなことを思ったわけですよ。

が、けっきょく、ぼくの中にある Sing Sing Sing 像がスーパーしょぼしょぼだっただけのようでした。だからヤマハさんの聴いて、マジかよこんなイケてる曲だったのかよこれ、ぼくらの高校のときのアレなんだったんだよ、時間かえしてよクソが、みたいなそんなかんじ。もう実はわりとこっそりひそかに涙目になりながら聴いてた。かっこよかった。プリマさんごめんなさい。

うまく言えないけど、”音楽” による “表現” とはこうあるべきだ、みたいなお手本を見せつけられた感覚でした。まじめな部分も、あそぶ部分も、隅から隅まで余すことなく、演奏者ひとりひとりの全身から “表現欲” みたいなものがむわんむわんと押し寄せてきた感じ。ほんとうに、ああいう演奏がぼくもしたいと、切に。

ドラムさん、圧巻でしたね。何をしてももうあのひとなら許されるよな、みたいな圧倒的なパフォーマでした。高ぶりすぎてジャンプしちゃうとかかっこいいです。惚れた。

おしゃれです

音楽をやっているひとの『他団体の演奏会に出かける』という行為には、いくつか種類があります。自分がやっている音楽と同じ分野の演奏会には比較的気軽に足を運ぶ気になるけれど、あんまり関係のない分野の演奏会って、なかなかいく気になれないとか、よくありますよね。

でもやっぱりこう、自分のと同じ分野かなんていう狭い枠で終わらないで、”音楽” っていう枠でとらえてあっちこっち行きまくりたいし行きまくるべきだと思いました。聴いただけ世界は広がるし、広がっただけこれまで自分が観ていた世界の狭さにも気がつくものです。自分の演奏が現状のままでよいならどうでもよいのだけれど、そうでなくてもっといろいろな音が出せるようになりたいのであれば、いろいろな音は聴かなきゃです。自分が井の中のなんとやらであることを自覚するべきだし、それ以前にまずは自分がただの蛙である可能性を少しでも考えないとです。

ここ何年かいろいろと足を運ぶようになってるけど、まだまだいろいろあるなーと、そんなことを思った日曜日でした。よい日でした。来年も行きたいです。

いちむじんの結成十周年記念コンサートに行ってきた

ぼくがいちむじんさんを知ったのは、2007 年のこと。

弊団体の演奏会のゲスト として来ていただいて、そこで いっしょにギターを弾いて から、もう 6 年以上が経ったようで。早いものですね。

そのときは舞台袖で、あるいは舞台上で、おふたりの音に触れました。いいなあかっこういいなあきれいだなあと、ぽわぽわと聴いていた記憶があります。

当時はまだピックアップシステムを使うこともなく、立ってギターを弾くこともなく、純然たる “クラシックギターの二重奏” というスタイルでした。

そんなおふたりの、結成十周年記念コンサートに行ってきました。3 月 7 日の金曜日、会場は東京芸術劇場の小ホール。

ホールに入って、ステージ上にスピーカが立っているのとシールドが椅子に掛けられているのと足台が無いのとをみて、おお、”これ系” になったのか、と思いながら着席。前から二列目のど真ん中でした。よい席。

会社を早退して腹ごしらえしてから会場へ

『最近彼らは立って弾く』という事前情報を得ていたのである程度予想はしていたものの、繰り広げられたのは、かつてのクラシッククラシックした感じとはひと味もふた味もちがう世界。

音の出し方とか PA の使い方とか、聴いていてぼくの中でイメージが重なったのは意外にも Rodrigo y Gabriela さんでした。あの方々から荒々しさをぐっと減らして、スピード感はそのままにクラシックギタリスト的な丁寧さと真面目さをうまい具合に混ぜ込んだような、そんな感覚。曲調が激しくても音の作りは丁寧だったし、しっとりなところのうたいかたはクラシックギタリストだけあってばつぐんにさすがな感じ。

根はクラシックだから落ち着いて聴けるけどでも音楽は激しい、みたいな、おもしろいおとしどころのハイブリッドな音楽でかっこうよかったです。

お花がおいてありました

しかしやはりクラシックギターの PA はむずかしそうですね……。とくにピックアップを使うとなるとなおさら。

いちむじんさんオリジナルの激しい曲では PA はよく合っていて、生音では出せない迫力でとてもよかった ((うっすらハウり気味だったのがすこし気になったけど……))のだけれど、しっとりした曲とか “クラシックギター” 用の曲とか、これは生音で聴きたかったなあと思うものもちらほらありました。RUI とかとくに……!

ちらし

クラシックギターの二重奏って、生音で緻密に組み立てる響きとか、息を飲むような緊張感とか、そういう音がだいすきなのだけれど、PA ありでがっつりアツいエネルギィをぶつけて弾くのもオイシイんだなあって思った演奏会でした。

立って弾くのに慣れきっていないのかもと思えるシーンもちょくちょくありましたが、”いちむじん” スタイル、これからが楽しみです。生音でコテコテのクラシックな二重奏コンサートをやるというなら、それはそれで涎を垂らして行きますが!

そして運のよいことにこんな展開になりました。

到着お待ちしています!!!

多摩高校ギターアンサンブル部の定期演奏会で、自分の原点に触れてきた

多摩高校ギターアンサンブル部。誰が何と言おうと、何年経とうとぼくのギター活動の原点はここにある。

早いものでかれこれ付き合いも 12 年目。そんな部活の、第 48 回定期演奏会。4 月 5 日、土曜日のお話。これまでの定期演奏会ではほとんど裏にいたぼくだけれど、今回は 8 年ぶりくらいに客席から観賞。

しかしほんとうに、なんというか…… 大きくなったなあと。

ただのオンボロの県立高校の、それもただの部活の、65 人もいる部員全員が、自分だけのギターを持って、日本有数のホールに、1,000 人の観客を相手に堂々と立って、そこで音楽をつくっている事実。もはや当たり前になりつつあって麻痺しているけれど、はっきり言えば、常識的に考えてあり得ない、異常なことだと思う。それでも 3 時間の演奏会を走り切れてしまうのが、彼らのもつエネルギィのすごさなのだろうけれど。

おなじみのホール

おどろいたのが、学生指揮者の彼の驚異的な伸びっぷり。夏以来とんと観ていなかったのだけれど、自分の動きの正しさに不安を感じているかのような当時の姿勢はどこへやら。ある程度決められた動きの中でも、自分の表現欲が存分に身体に出ていたように見えて、清々しかった。

重奏も、とくに編曲、やればできるんだからこれまでももっとやればよかったのにと思えるレベル。編曲だけでなくて演奏もよいバランスで、とくにパートリーダさんたちのは完成度が高かった印象。パートリーダさんだけという編成は、低音勢が多すぎてそもそもバランスが悪いという根本的な問題を抱えているのだけれど、それを感じさせない丁寧な仕上がり。編曲もよかったのかな。

一年生の学年演奏も、この時期でこの仕上がりは想像以上。すごく丁寧だった。最終的にはもっと荒々しくうねりまくってくれるとよいと思うけれど、いまこの段階では、あとで自由に走り回れるだけの堅い基盤づくり、広い土地づくりをきっちり丁寧に進めるほうが大事。そういう意味で、コンクールに向けた途中経過としてはさいこうの状態だったと思えた。

おひる

とはいえどの曲も、このホールでこの演奏となると、ちょっと背伸びしている感も透けて見えてしまって。これだけの多い人数をうまくコントロールできていることは恐るべき統率力ではあるのだけれど、曲作り、表現の面では無難なところで落ち着けたなあというか、落ち着けざるを得なかったのかしらというか、そんな印象は否めない。

そうした中でもいろいろと、変わろうとした気配が感じられた点はうれしい。例えば妙なぴょこぴょこした動きがなくなってきたこと。例えば重奏の編曲を演奏者自身だけで仕上げるようになってきたこと。行動原理を他人の評価から自分の欲へとうつしつつあるようなもので、部活ってもともとそのほうが健全だよなあと思いながら観ていた。自由にしていいといわれて逆にどうすればいいのかわからない、みたいな迷いがまだあったのかもしれないけれど、手探りで動き出してみたその方向はたぶん間違っていないので、恐れずにこのままがんがん突き進んでほしいと思う。

なにかの “形” が先代から何の解説もなく遺されていたとしても、もともとその形が生まれたことには必ず意味がある。その意味を考えて、それが今のじぶんたちに本当に必要なのかを考えて、必要だったら取り込めばいいし、必要でなければ捨てればいい。文化とか伝統とかセンパイとか、いろいろと『なんとなく敬意を表して尊重しなければければならなそうなもの』って世の中にはたくさんあるけれど、その実、今の自分にとってそれが必ずしも合理的な最適解かどうかといわれたら、だいたいそんなことはなくて、ほとんどが不合理だし理不尽だし意味不明だし、その程度のものでしかない。

背伸びも大事だけど、身の丈に合っていることも大事。イキオイだけで登れる高さには限界がある。今までどうだったかはひとまず置いておいて、今の自分にとっていちばんふさわしいのはどれなのか、 地に足をつけて、先を見据えて、一歩一歩踏み固めながら確実に歩を進めるのも、イキオイ以上の最上の価値を生み出すひとつの方法論。

ゆうはん

思うに、前回、56 期の定期演奏会が、それまでの十年近くの流れの “完成系” であり、終着点であり、ひとつの時代の “理想的な終焉” だった。そして 57 期は、その血を継ぎついでいながらもたぶんまったく新しい流れの始まりの代で、きっと進化や発展のきっかけになる代であるように思う。

変化の片鱗はこの演奏会でも観てとれて、だからぼくはさらにこの血を受け継いだ 58 期が、57 期のつくった変化のきっかけを糧に、これからぼくの知らないあたらしいギターアンサンブル部をつくりあげてくれる気がしていて、それをすごく楽しみにしている。

帰り道

この部活にぼくはぼくなりの正義をもって接してきたし、ぼくなりの哲学をもって接してきたけれど、そうした結果、身の回りの変化とともにそろそろ引こうとこっそり思ったのが去年の話。だから今年は、ぼくの知っていること持っていることを、知るべきひと持つべきひとに渡す、そんな自分なりの移行期間だった。

OB さんにとっては、これから起きる変化で部活が “自分の常識と違う” 世界になっていくかもしれないけれど、その変化は全力で受け入れて、現役さんが進みたがっている方向に進めるような、お手伝いするならそういうものを、変化に沿った力添えを。尊重すべきであり尊重されるべき意向は、OB たる自分のものではなく、現役さんのそれ。

そこで求められる “お手伝い” は、もしかしたら “なにも手を出さないこと” かもしれないけれど、もしそうなったらそれはそれで、それはやっぱり現実。部活は現役さんのもので、演奏会は現役さんのもので、時間は現役さんのもので、なにもかも現役さんのもので、それはやっぱり大原則で、部活なんてなにひとつ OB のものではないのだと、部活における “神” はどこまでも現役さんなのだと、ぼくはそういう認識でいる。時間は巻き戻すものではなく、進めるもので、過去は過去、今は今。

そろそろおしまい

ぼくのこういう考え方も、ぼくにとってのぼくだけの正義であって、ぼくはぼくの知っていることしか知らないし、ぼくはぼくの考えられることしか考えられないから、何が正しいかとか、この先どうなるかなんて、なにもわからないし知らないのだけれど。

それでもひとりのお客さんとして、ぼくの愛してやまないこの部活が、新時代をどう生きてどう進むのか。大いに期待できそうで、とても楽しみ。

5 年後 10 年後、そのときぼくはどこでなにをしているのか想像もつかないけれど、人生のすべてをかけて人生の楽しさを心の底から味わいつくしているような、そんな現役さんの演奏会をまた観にいけたらいいなあと思うのでした。

引地台中学校クラシックギター部の定期演奏会に行ってきた

JGA コンクールでおなじみの中学校、大和市立の引地台中学校さんのギター部。

コンクールの演奏はもう十年以上前から何度も聴いていたけど、定期演奏会は実は行ったことがなかった。スケジュールの調整がついたので初参加。3 月 29 日、土曜日のお話。

いりぐち

コンクールでは出場している中学校の中でもばつぐんの演奏を披露してくれるこの引地台さん。毎年のように舞台袖で聴いていても、年々めきめきと腕を上げている感があって、ここ数年は聴くたびに引地台さんてこんなにレベル高かったっけなあと思わされる、そんな具合。

今回の定期演奏会は、コンクールで演奏の核になっていた三年生が抜けたあとでの開催。だから当然ながら全体の演奏はコンクールのときほどのレベルではなかったけれど、部全体の “成長過程” がよくみえて、次のコンクールがひじょうに楽しみになるような、そんな演奏会だった。

“松明の火” は去年のコンクールにむけて弾き込んだだけあって、今回のプログラムの中ではいちばん聴き応えがあった。身体が曲を覚えているのかなと、そうなるとあとは勢いで押せるし、そしてこの曲の場合はそういう弾き方がよく合う。

“松明” の前の曲、講師の O 氏が指揮をふる今年のメイン曲らしい BWV 542、通称 “大フーガ” は、まだだいぶたどたどしかったけれど、これが次のコンクールでは “松明” のレベル以上の演奏になることはまず間違いがないわけで。いいですね、先が楽しみ。

この O 氏、4 小節のレッスンに 2 時間かけたとかかけないとか、細部へのこだわりがひじょうにつよい先生。これまでの弾きっぷりや弾けっぷりをみると、引地台さんは、荒く全体を短時間で作ってからあとで細部に取り組む、のではなくて、最初から時間をかけてじっくりゆっくりじわじわと錬成していく、そういう進め方のほうが伸びるタイプなのかなあと、そんな感があった。そうすると O 氏のじわじわこだわり型の教育方針(?)との相性もよさそうで、これはぜひ何百時間でもかけて至高の大フーガにしていただきたいところ。

そして一年生の学年合奏が思いのほかすてきな仕上がり。曲がよいのか編曲がよいのかわからないけれど、『こう弾こう』という意思があると自然と合ってくる。大フーガは複雑な曲だけれど、徐々に慣れていって、こういう “わかりやすいポップス” と同じ姿勢で取り組めるようになると、部全体にとってもつよいエネルギィになりそうだなと。

反面、重奏は全体的にちょっと危なっかしかった……。

手作り感!

とはいえ、中学生の部活となると『たのしいは正義』みたいなところがあって、演奏者が楽しければそれだけで勝ち! 合格! っていう側面も多分にある。

部活というのはおもしろいもので、基本的なモチベーションは『楽しいから』というただそれだけの、といいつつ実は “最強” の欲求が源泉。だからそういう組織がつくった成果に対する評価は、上手か下手かよりも、成績や品質よりも、なんだかんだいって単なる当人たち自身の “満足度” がもっとも重要なのではないかしら、みたいなことを考えている。

現実問題、中学生というのはつい最近まで小学生だった方々であるわけで、体格やら筋力やらの身体の発達が成人と同じ楽器を扱えるところまで行きついていない、ということもありそう。

それでもこれだけの人数が好きであつまって楽しそうに活動しているというのは、ウマいヘタ関係なく、それだけでやっぱり “最強” なんだなあと、そんな感想。

8 月、コンクールの舞台、MUZA 川崎のホールで会えることを楽しみにしています。

北杜高校ギター部のスプリングコンサートで、日本でいちばんの合奏を聴いてきた

3 月 30 日、日曜日。山梨県立北杜高校さんのギター部のスプリングコンサートに行ってきた。

初めて行った一年前につづいて、今回で二回目。去年はちまっと 4 人での参加だったけど、今回はちょっと幅をひろげて、ぼく以外に、中学生ひとり、高校生ふたり、大学生ひとり、浪人生ひとり、社会人ひとりの、全部で 7 人。ステップワゴンを借りて、みんなでわいわい遠足なノリで。

朝 9 時に集まって、車に乗り込んで、わちゃわちゃしながら 2 時間の道程。調布から中央自動車道を下って、甲府昭和で降りる。去年と同じお店で去年と同じようにみんなでほうとうととりもつ煮をたべたあと、さらに 30 分ほど車で進んで会場の北杜市オオムラサキセンターへ。集合がはやすぎたかなあとも思ったけど、いつも以上にのんびり運転してお昼をのんびりとったので、結果的にはちょうどよかった。

いちねんぶり

地域とともに在ること、そして地元の住民の方々に愛されていること、そういうことをひしひしと感じられるこのあたたかな空気の会場に、ああまた来られたなあよかったなあと、二回目にしてこうもうれしく思ってしまうのは、たぶん同行の友人と同じように、ぼくももはやただのファンなんだろうなあと。座布団に座ってギターをのんびりと聴く時間はとても贅沢。よいものです。

ベタ褒め気味に入ったけれど、実際その実力は折り紙つき。ここ何年も惜しくも最優秀賞を逃していた全国学校ギター合奏コンクールで、前回ついに日本一に輝いたこともあり。去年よりもお客さんが多かったような気もした。

おひる

北杜さん、人前で演奏する機会が、他校のギター部よりもおそらく圧倒的に多い。月に数回以上、それこそ毎週のようにどこかでなにかを弾いている印象がある。

そういう経験が多いのはたぶん北杜さんの圧倒的な武器だし強みだし、演奏からもその “慣れ” が見てわかるくらいには、実際すごくよく作用している。緊張していないわけではないのだけれど、固くなりすぎることもなく、いつもどおりの柔らかい身体で音を作れていそうな、そんな感触がある。

今回の演奏会では、低音勢の安定感がきわだっていた。すこしやんちゃで主張しすぎている感もあったけれど、不動の基盤があることで、上は上で安心してのびのびとうたえて音をつくれるわけで、とてもきもちがよさそう。重奏のバランス感覚も、さいこうによかった。とくに二団体目の、それも前半。あとで話を聴いたら重奏の対外的なお披露目はこの日が初めてだったそうで。基礎力の違いなのか何なのか。

会場案内

一般的に、アルトギターは音質にとくべつに気を遣わないとカシャカシャしてきたない音が出る。よくある学生のアンサンブルは、カシャカシャを大人数で弾いて噪音を楽音で打ち消して『なんとなくきれいっぽくきこえる』というところで終わってしまうのだけれど、対して北杜さんのアルトギターは相変わらずぽろんぽろんときれいに丸い音で、ストレスなく耳に届く。

数にごまかされているのかと思いきや、重奏やソロなどひとりふたりで弾いているところも出音がきれいなので、個人差はあるものの根本的にきれいっぽい。

フォームも手の使い方もきれいで、アルペジオでも右手の安定感がくずれないのが学生らしからぬクオリティ。重奏三団体目でアルトのセカンドを弾いていた彼(顧問の先生のお見送りのときにアルトを担当していた彼)とか。たまたま目に入っただけかもしれないけど、ああいう奏者が弊団体に欲しいなあと。

そして演歌! 初めて聴いたけどおもしろい。津軽海峡冬景色、爆音の低音勢がうまい『荒さ』になってよい演歌っぽさ。ただその反面、プライムより上が『きれいすぎ』てしまって、演歌にしてはお上品すぎる気もした。メロディを生かしてギターならではの曲として作るのか、こぶしの効いたもともとの演歌らしさを求めるのか、方向付けがむずかしそうだなあと。しかしつきつめたら新しい世界に行けそう。よい編曲だったのでぜひいろいろなところで弾いてほしいところ。

最後、A 先生が『生徒主体で、やりたい曲を、やりたい編成でやる』とお話していたけれど、実際その通りの理想的な活動ができていそうで、うらやましいかぎり。

反省会の様子です

さて、演奏とは関係ないところで、今回初めてわかったのは、中学生高校生を遠方に連れて行こうとするには、意外と『保護者の許可』という壁が高いということ。

保護者の許可がおりない事例は、本人の意思と時間の余裕とはまったく無関係に発生するうえに、ぼくは保護者と直接話すわけにもいかない(話せても意味がない)のでつらいところ。 保護者がどのような理由で許可しなかったのかを聴けていないので、杞憂かもしれないけれど。

もっとも、保護者側からすれば、中学生の息子や娘が十以上も歳の離れた謎の社会人の車に何時間も乗って遠くに遊びに行くなんて、ふつうに考えたらそれは心配だろうし、弁解しようがないのも事実。こういうときに『講師』っていう肩書きは有効なんだなあって、ちょっと思った。ぼくは講師ではないので、もちろんそれは使えないけれど。

幻のカルビは売り切れだった

北杜市、ぼくら OB 勢は車が動かせるし定期演奏会の練習もないし金銭的な余裕もあるので時間さえゆるせば気軽に行けるところではあるけれど、本当はぼくはぼくらを起点にして、OB 勢よりも現役同士の交流につなげたいとものすごく思っている。

しかし物理的な距離はいかんともしがたいのが現実で、中高生は車は運転できないし電車で行くにしても金銭的な負荷はかかるし、時期的に定期演奏会の練習があるし、そして時間と意思はあっても保護者の理解がないと、はるばる行くことはなかなかかなわない。

『ふだん行かないところ』で『ふだん聴けない演奏』を聴くって、さいこうに刺激的でさいこうの勉強だと思う。今回は数人だけではあるものの念願かなって現役さんを連れて行けたので、この流れでそのうちミニバス旅行的な公式イベントに発展しないかなあとか、実は考えているのだけれど。

なにはともあれ、次のコンクール。楽しみです。また舞台裏で会いましょう。

ジョアン・リラさんのライブとワークショップで、ホンモノのボサノヴァに触れてきた

ボサノヴァのボの字も知らないぼくが、いろいろと縁があって、ブラジル音楽のライブとワークショップに参加できることになった。4 月 11 日、とくに予定のない夜になるはずだった金曜日のお話。

たまたま、ほんとうにたまたま、友人との雑談のなかで話題にぽっと出てきた今回の件。自分がまったく知らない分野の音楽に触れることのおもしろさは 先日の吹奏楽 でも存分に味わっていたので、二つ返事で参加することに。

ほんわかしてる

会場は、ブラジル音楽界隈では有名らしい MADEIRA。普段は展示場を兼ねているようで、オフィスの 1 階とは思えないステキ空間。天井が高くてガラス張りのフロアに、おおきなヤシの木みたいな観葉植物と JBL のスピーカが共生していた。壁にはこじゃれた絵、あちらこちらに飾ってある紙でできたかわいい小物。その横にひっそりと見慣れた波動スピーカ。

カフェとバーとライブハウスを足して 3 で割ったような、こういうところで好きな音楽をつまびきながらのんびりと語り合えたらさいこうだろうなあと思える、とても居心地のよい場所だった。そして実際そういう時間のためにこの場があるようで、なんというか、あるところにはあるんだなあと。

キャパシティは 50 人ほどで、お客さん同士はお互い知っている顔がおおかったもよう。あちらこちらであいさつ合戦が繰り広げられていた。

波動スピーカさん

『MADEIRA 5 周年記念特別企画 / ジョアン・リラ来日記念スペシャルライブ & ワークショップ』と名付けられた今回のイベント。”ワークショップ” という名の通り、前半は実際の演奏で例示しながらブラジル音楽のさまざまリズムを解説していくワークショップ形式。ギターとヴォーカルがジョアン・リラさん。隣に通訳を兼ねたパーカッションの方。

ブラジル音楽ってサンバとショーロとボサノヴァでしょ、みたいな、ぼくはさいこうにひどくて雑な理解しかしていなかったのだけれど、よもやここまで多彩なリズムがあるとはまったく想像もしていなかった。たのしい。

ジョアン・リラさんが『次は○○のリズムで~』と次々に解説を交えつつ披露してくれるのだけれど、通訳の方の発するカタカナの専門用語が、ぼくの知らない単語すぎてまず聴き取れない。ポルトガル語だってこともあって、そもそもカタカナ化することが難しくもあるのだけれど、それにしてもだばだば未知の用語があふれるように出てきて、しかもぼく以外のお客さんはみんなふんふんと頷きながら聴いている。ブラジル音楽の世界ではある意味で基礎的なところなのかもしれないけれど、白状すると全然わからない。

ざっくり振り返るだけでも、パルチード・アウト、サンバ・ヂ・ハイース、サンバ・ジャズ、サンバ・カンソン、ショーロ、ショーロ・ロマンチコ(サンバ・ロマンチコ?)、ショッチ、マラカトゥ、バイヨン、シランダ、コーコ、などなど。メモしきれていないのもたくさんあった。そういうリズム、ジャンルを、お手本つきで解説してくれる。

こういうイベント

このイベントに来る前から、奥が深そうだということは予想してはいた。でもすごく原始的なものだから、だからこそこんなに細かく分類されているなんて思ってもいなかった。まったく逆だった。

これは低音の流れがすごく大事で、とか。これは輪になって踊るときのだから一拍目に必ず強烈なアクセントが、とか。最近のこれはすごく早いけれど昔はゆっくりだったんだ、とか。これはギターにアクセントはなくて、全部同じ音量で、とか。これはセッションしやすいように、ギターは複雑にしないで、和声もシンプルに、とか。その代わりこれはうたの位置が複雑で、シンコペーションでわざとずらすんだ、とか。北東部からはたくさんのリズムが生まれて、それはたくさんの国からの移民が居たからだ、とか。これはレゲエとルーツがいっしょなんだ、とか。これとこれは楽譜に書くとまったくいっしょなんだけど、演奏するとこんなに違うんだ、とか。

解説だけでなく”ダメな演奏” をわざと挟んでくれることもあって、本来の演奏と聴き比べるとたしかに圧倒的にノれることがよくわかる。日本でよく聴くボサノヴァのリズムはここがおかしくて、ほんとうはこうするんだ、こうだとすごくよいでしょ、とか。

おしゃれ空間

繰り広げられたのは、ぼくが普段よく関わっているいわゆるクラシック音楽の緻密極まりない音作りとはまったく違う世界。もっと人間本来の、根源的、あるいは原始的なところに響くリズム。西洋音楽は “計算” されているけれど、ブラジル音楽はそういう狡猾さはまったくなくて、もっとこう、人間の本能というか魂というか、”欲” に素直に従っている気がして、頭をからっぽにしてふわふわと聴いていたくなる心地よさがあった。

よいものですね。よいものです。たのしいし、きもちがよい。音の流れに身を任せられる感覚、久しぶり。

途中、クラリネットも入って三人になるシーンもあった。客席ですぐ横にいたひとがいきなり呼ばれて戸惑いながらも舞台に上がって初見で吹く、というのも、こういうアットホーム感のある会場ならではなんだろうなあと。ぼくらにはない空気なのでとても新鮮。初見なのに合わせどころばっちりだし。こういう音楽って、どこまで楽譜に書いてあるのかしら? どこからがアドリビタム? ジャズにも思うことだけれど、その場で一回限りしか聴けない音って、すごく貴重で崇高なもの。

ワークショップ中に例示された中には、アントニオ・カルロス・ジョビンさんとか、バーデン・パウエルさんとか、知っている名前もちらほらあって、ギターの独奏ではメジャな曲でも、ただしいリズム感を出そうとしたら、この深遠な世界に触れざるを得なくなるんだろうなあとか、そんな怖いもの見たさも。

休憩を挟んだ後半はライブ。女性のヴォーカリストさん兼ギタリストさんが加わって、三人でのセッション。これもよいものだった。ジョアン・リラさんの男声もグルーヴィですてきだったけれど、女声のゆったり感、浮遊感もきもちがよかった。

"KURO" 宛にサインもらった

そんなこんなで、全然知らない世界に触れて刺激をうけまくった夜。似非クラシック畑の人間が異世界に飛びこんだらこうなった。詳しいことは全然わからないけれど、でもちょうすごかったしさいこうにイケてた。

これ、たたでさえおもしろかったけれど、前提知識があったら絶対にもっとおもしろい。なんでもそうだけれど、お勉強って基礎は地味でも、基礎から一歩先に進んだ瞬間に圧倒的に世界が広がっておもしろくなるよね。

ギターアンサンブルを知らない方々がぼくらのコンサートに初めて来た時の気分も、もしかしたらこんな感じなんだろうなあと思えたのもひとつの収穫。今回のぼくははっきりと “一見さん” だったわけで、それでもひたすら純粋に楽しめた。ぼくらのコンサートに “一見さん” が来たときに、『詳しいことはよくわかんないけど、でもなんかちょーすごかった!』って、そんな感想がもらえるような演奏ができたらよいなあって。

終演後、任意参加のセッションもあって ((イベントの Web には “楽器持参でどうぞ!” などと書いてあった))、それも楽しそうだった。ブラジル音楽のセッションだと知らない世界すぎて混ざりようがないので辞去したけど、ああいうところに飛び込んで混ざって弾けたらさいこうにたのしそうでうらやましい。

ありがとうございました

自分の音楽スキルはどうしたってほとんどが付け焼刃なので、がっちり依拠できる核が欲しいって、こういうの観ていると思っちゃう。趣味を趣味以上にしたいなら、やっぱりお勉強はだいじ。

そんなこんなで、いろいろな方にごあいさつもできて、またひとつコミュニティは広がったすてきな夜だった。機会があれば、またどこかで。

相模原中等教育学校クラシックギター部の定期演奏会で、とんでもなく奇跡的な演奏を聴いてきた

先日の日曜日、4 月 20 日。

OB でもないのになにかと個人的に縁が多すぎるほどに多い、相模原中等教育学校クラシックギター部さんの定期演奏会。

相模大野高校から相模原中等教育学校に変わって六年目。中等学校の一期生が最上級生となる今年、初めて “中等生” のみによって開催される記念すべき演奏会。回数こそ高校のそれを受け継いで “第 26 回” と銘打ってはいるものの、その意味はほとんど “第 1 回” に等しい。

そんな演奏会、想像以上の演奏が聴けることを楽しみにしていたら、想像以上すぎるほどに想像以上すぎた。奇跡と思うことも厭わない、何の躊躇いもなくぼくはこれを手放しに賞賛できる、ぼくが聴いたのはそんな音だった。

いいデザイン

ぼくがギターアンサンブルの世界に触れてからまだ十数年しか経っていないけれど、それでもそこそこの数の部活の演奏を聴いてきたし、それと同時にたくさんの『お客さん』にも会ってきた。

この世界にかぎらずどの分野のどの演奏会でも、”部活” の演奏会であれば、一般のお客さんがよく言うのは、『かっこうよかった』『うまかった』『すごかった』『きれいだった』というだいたいが至極まっとうで前向きな評価。でもそれはまた同時に、だいたいが『まだ中学生なのに』とか『高校生にしては』とか、そういう暗黙のうちに共有される接頭辞があってのもので、平たく言えばそもそもの評価基準が低い。だからこそ当の学生からすれば、そういう色眼鏡を通さない “まっとうな評価” を得るのはひどく難しいことでもある。

純粋に、音楽としてどうなのか。ギターとしてどうなのか。ギター合奏としてどうなのか。

とはいうものの、組織のアイデンティティとして “部活” という絶対の事実はあるわけで、であれば “たのしいは正義” という側面があるのも事実なわけで、自分の中の評価軸をどこに持つか、どう前提を置くか、どういう姿勢で聴くか、演奏を聴くときはいつも悩ましいのだけれど、今回のこの演奏会は、いつも以上に部活だとか学生だとかそういう能書きのどうでもよすぎるどうでもよさが強烈に身に染みたものだった。

もちろん曲によって出来はばらばらではあったけれど、それでもあの演奏が “学生” である彼らによってつくられた現実を、ぼくは認めたくなかった。だからこそぼくは、あのさいこうの演奏が、ぼくの “友人たち” によってつくられた事実を全力で肯定したいし、心から歓迎して受け入れたい。そう思えることが、ぼくはたまらなくうれしい。

ほんとうに、よいものを観た。

とくに意味のない写真

指揮は言うまでもなく当たり前のようにぶっとんでいる。指揮だけぶっとんでいるのとか、演奏に指揮が追いついていないとか、そんなものはそこらじゅうに転がっているのだけれど、でも演奏があの指揮にがっつり食いついていけている世界が、こんな近くにあったというのは予想外。冗談抜きで奇跡的な完成度。

JGA 界隈の学生指揮者というと、指導陣のクセがうつって “JAEM 風” っぽく見えることがよくあるのだけれど、あの指揮者はもう自分のスタイルを確立して、完全に独立しているように見える。演奏者の食らいつきを余裕で受け流す瞬間、受け入れる瞬間。圧をかける瞬間。抜く瞬間。刺す瞬間、歩く瞬間、踊る瞬間。お互いにわかりきっているからこそできる、ほんとうにリアルタイムの、あの場のあの瞬間でしか作り得ない、一瞬の視線と音と、空気と呼吸だけで信頼できる仲間と意思を伝え合うやりとりのおもしろさ、たのしさ。そんな世界を全身で味わいつくそうとしている筋肉の動きが見える背中は、客席から見ているとほんとうにかっこういい。

そしてそういう指揮者に身をゆだねて、ギターを意のままに爆発させる、演奏者側の一期生。うすっぺらい感動物語とかみせかけばかりのうさんくさい絆とかいう概念があふれるこの時代に、ほんとうにきれいで純粋な信頼関係を見られた気がした。

ぷりぷりでした

至高だったのは、そんな一期生十人によるベートーヴェンのセリオーソ。指揮はなくて、全員が演奏者。自由に、ほんとうに自由に音楽をつくっていて、この演奏会でいちばんこれが好きだった。何にも縛られずに、その場の空気に全身を預けて、流れにのって弾く。お互いもはや目を合わせる必要もなさそうな、目をつぶっていても完璧に意思の疎通がはかれそうな、そんな濃密な空気。

色のまったくちがう細かな断片が散りばめられたあの曲を、よくもまああそこまで分析して解釈して、そしてその通りに表現しきってくれたものだと。厳しい音を弾ききった次の瞬間、まったく違う表情で踊り出てくるなめらかなアルトギターの音。なかなか聴けるものではない。数字だけ考えればパート間の人数比もあまりよくはなかったのだけれど、彼らにとってはこれこそが最高の比率のようで、実際、一分の隙もなく緻密に組み立てられていた印象。

ほんとうに好きで、ほんとうにたのしくて、ほんとうにこれがやりたくて、だからこそいまあそこに居て、いまああいう音づくりができているのだと。そう思わざるを得ない、おそろしくきれいな世界。

こちらはお昼

セリオーソだけでなくて、バルトークも至高だった。コンクール曲だけあって、はっきりと完成されている感がある。コンクールのときもそうだったけれど、コンクール以上に冒頭部で瞬時に惹きつけられたまま、ほんとうにあっという間に終わってしまった。

アラジンはちょうばかっぽい(ほめてる)演出とはうらはらに、しっかり丁寧にきれいだったのでよい意味ですごく裏切られたし、一年前は小学生だった二年生がタッチで身体をがんがんつかえていて衝撃だったし ((よい先輩のよい生き方をみて育ったからかしらね、やっぱり))。Surge III は、意図しているのかいないのかわからないけれど荒っぽさがすごく Surge っぽくて好きだったし ((多摩のより好きだった))、Surge V はコンクールのときよりあっさりしていて、曲調と相まってさわやかさがよく表れていたし ((竹内先生らしからぬさわやかさなので、もともとこってりねちねち弾くべきものではないって思ってる))。

反面、闘牛士が若干曲に負け気味で理想と現実が噛み合ってなかったりとか ((理想が先走って、現実が追い付けていない感じ))、指揮がちょっと猫背だったりとか ((肩を張って顎を引いたらよくなりそう))。車輪の歌がちょっとぐちゃぐちゃ感あったりとか ((これはちょっと残念だった…… メロディが聴こえない。ポップスよりクラシック曲のほうが得意そう))。アレグロがちょっときれいすぎて逆にもやっとしていたりとか ((あのテンポで回っていたのは衝撃だった。鋭い音と甘い音を使い分けて、はっきりきっぱりしたコントラストが出せるようになるともっとよさそう。個人的には原譜で sul G の指定があるところの sul G っぽさにはぜひこだわってほしいところ。もちろん、コンクールをめがけた曲だから、今の時期のこの段階であれこれいうべきものではないのだけれど))。弾く人数が少ないところではそもそも音量がホールに負けている感が否めなかったりとか ((前の方の席だったからよかったけど、後ろまで届いていたか怪しい気が。ソロとかとくに……。技術的な意味で楽器をもっとよく鳴らせば音量も稼げそうではある))。

いろいろあったけれど、総じて、とんでもない演奏会だったと思う。極端に言えば、”学生のギターアンサンブル” の奇跡的な完成形めいたものが見えた気がした、そんな演奏会だった。

だーさら

とはいえ、こうなると来年以降がものすごく、ほんとうにものすごく大変そう。

一期生は、一期生だからこそ、五年間ずっと先頭に立っていた、というか、立たざるを得なかったはず。”先輩” が居ないから、自分たちの前には誰もいなくて、すべてを自分たちで作らなければならなかったし、自分たちが先陣を切らなければならない責務があったはず。

一期生には圧倒的なカリスマ性がある。これはもうおそらく事実で、でもそれはもって生まれた部分以上に、五年間かけて培われた部分がひじょうに大きいと思っている。SSSCGC の創造主たる “神” 、あるいは “伝説” の一期生を、二期生は追いつくだけでなく追いこさないといけない。

一期生の部活に対する方法論は、きっとあの十人だからできたものだし、十人という人数だからこそのものでもありそう。五年間ずっと先頭に立っていた一期生と、四年間ずっと自分たちをひっぱってくれるひとがいた二期生のギャップは、たぶん想像以上に大きい。二期生は二期生で、じぶんたちの方法を模索して、確立しないといけない。

ふわふわのレバー

組織は、創設した代が抜けてからが本番。きっとおそろしく大変だけれど、それ以上におそろしくたのしい世界だから、やりたいようにやって、こらえながらも余裕をもってくぐりぬけてほしいと思う。彼らがコンクールまでどう生きて、定期演奏会までどう生きるのか、新しい伝説になることを、全力で期待したい。

彼らと関われて、ほんとうによかった。この演奏会を作り上げてくれたことが、ひとりの友人として、ぼくはとても誇らしい。

そしていつか、彼らと同じステージに立てたらいいなあと、そんなことを思っている。

大宮高校ギター部の定期演奏会で、なつかしい堅実な音を聴いてきた

6 月 22 日、大宮高校ギター部さんの定期演奏会に行ってきた。

ここももうコンクールの演奏は長いこと聴いてきたけれど、定期演奏会にはまだ行ったことがなくて。いろいろと身の回りでも動きがあったので、行くにはよい頃合いかなあみたいな、そんな動機。

さびれた市民館での手作り感あふれる演奏会って、ぼくにはとても魅力的。自分の高校の頃を思い出すよね、この年季の入った市民館独特の空気がほんとうになつかしい。みなとみらいとかミューザとかそういうのもそれはそれでいいけど、やっぱりなんていうか、日常の延長で居られる空気の演奏会って大事。

冒頭の “シェリーに口づけ” をすごく手堅く平和にまとめてきていたので、なるほど今日の演奏会はこの空気なのねーと思っていたら、演奏後の MC がちょうハイテンションで『ハイど~も~☆』と始まって、このギャップが…… ギャップが……!!!

そうはいっても MC、とくに女性陣がよい空気を作れていた感じ。耳にやさしい自然体。”クラシックギター” というだけで身構えられがちなこの世界では、観客に力を抜いてもらうために MC は地味にだいじなので、その意味ですごくよく作用していたと思う。

でもだからこそ、白状すると、冒頭で感じた MC のテンションと演奏のテンションのギャップが、最後まで抜けきらなかったのはちょっと残念。

演奏はどの曲もとても堅実で、きっちりとしたほんとうにていねいなつくり。早いところや複雑なところでは若干の揺れもあったけれど、組み立てがうまいから基本的に不安を感じない演奏。

でも逆にいうと、いうなればとても優等生的で、すごくさらりとそつなく弾いてしまうので、魅せどころを魅せきらないままさくさくと進んでしまう面もあり。クラスにひとりふたり居る、涼しい顔をしてさらりと何でもうまくこなしてしまうひとのような、すごいと思う反面ちょっとものたりないとも思うような、そんな感覚もあった。このあたり、つくりかたがむずかしいところでもあるのだけれど……。

個人的にいちばんよかったのは、”人生のメリーゴーランド” の、とくにアルト勢だけで合わせるところ。あの感覚、テンポではなくうたで合わせるあの緊張感と濃く絡み合う空気、とてもよかった。もうすこしうたに合わせた音質になれると文句なしだったけど、それでもじゅうぶんよいうたいかただった。よかった。

あとはアンコールの一曲目。いちばん力が抜けていて、ラフな空気で気軽に聴けてたのしかった。この曲に限らず、プライムのストロークの安定感と勢いは全体のよい核になっていた感じ。ポップスが多めの演奏会だったからなおのこと。

あ、あとウクレレもちょうかわいかった。

“シェリーに口づけ” とか “大フーガ” とか、いろいろなギター合奏団体が昔から弾いている曲は、ここはこう弾くあそこはああ合わせるって、ある種の型が決まっているものが多い。だからその型がわかれば比較的短時間で形になるし、合わせる楽しさも味わいやすいのだけれど、でも言ってしまえば、演奏の “個性” はさらにその一歩先の世界から生まれるものなわけで。

手堅くまとめる力とか、ていねいかつさらっと弾ける力は、どう考えてもまちがいなく強みだから、その強みを活かした大宮高校ならではの音楽って何だろうって、そういう攻め方もありかもしれないなあと。

手堅くまとめるのはあのコーチの得意技(?)なので、いっしょにその先の何かをぶちやぶれると世界が広がりそうな気がする。もっと好き放題やっても平気だって、自由であることは許されているって、表現の振れ幅を爆発させる方法はきっとコーチが教えてくれる……!

個々人のポテンシャルは高そうだし、さてさてそうすると来年に向けてこの方々はどう変わっていくのかしらと。環境の変化は革命を起こすよい機会だし、コーチの手腕に期待ですね。

まずはコンクール、そしてその先の来年の定期演奏会へ。三ヶ月後と一年後、たのしい演奏をたのしみにしています。