吹奏楽祭 2014 マーチ&ポップス・イン・HIBIYA に行ってきた

またまた吹奏楽を聴きに。7 月 13 日、日比谷公会堂。

同じ日に洗足音楽大学のクラシックギターコースの演奏会もあって、そちらも魅力的ではあったのだけれど、残念ながらハシゴはかなわず。

のんびりめに家を出たら、東京隆生吹奏楽団さんの演奏中に到着。

着いていきなり観たこの方々がいきなりレベル高くてテンションうなぎのぼり。フルートのソリストさんの身体のつかいかたがイケイケでかっこうよかった。

音楽的情動に素直に従った派手な身体の動きってぼくはすごく好きで、意図的な演出では絶対に表現できない域だし、聴き手の動物的原始的本能的な芯に突き刺さる魅力があると思っている。

社会人と大学生が中心のようで、年齢層は高くない。だからこそよい意味で『脂ののった若手』って感じで、習熟度とか積極性とか柔軟性とか冒険心とか余裕とか体力とかいちばんオイシイころあいで、いちばん音楽を自由に好き放題にアツくできる年齢がこのあたりだよなあと、そんなことを思った。

つづく潤徳女子高等学校さんの演奏は、スマートで隙のない仕上がり。逆にいうとあまり遊びはなくて、演出で表現しようとしていたポップさと演奏とのギャップがちょっと大きくなってしまっていた印象。

舞台前列に並んだ演出担当の方々で演奏者が隠れてしまって、並んで踊っている方々のために BGM を演奏していますよ、みたいな空気に見えてしまったのもすこし残念だった。そして並んで踊っている方々、一曲まるまる楽器を触れないようだったけれど、あれって本人たちはそれでいいのかしら……? 吹奏楽界の文化をよく知らないから、あれもふつうのことなのかもしれないけれど。

最後の東京都職場吹奏楽連盟合同バンドさん。この日のために集まった、東京都内のさまざまな会社の吹奏楽団の有志の方々だそうで。総勢 60 名ほどだとか。

ブルーインパルス、とにかく難しそう……! ほんの数回の練習でここまで持ってくるのは個々人のレベルの高さがあってこそだなあとは思ったけど、それでもまだ “こなせていない” 感じが否めなかった。シンコペーションのもたもた感とか速いスケールのぐらつきとか、全体的に力業で合わせにいっている印象。でもかっこうよい曲でたのしい。

民謡は和太鼓がイイ味を出していた。日本の民謡を西洋の楽器と様式で演奏するのって、よくよく考えるとふしぎだけれど、やってみるとけっこう合うのよね。民謡の勢いと吹奏楽の破裂音は相性がよい。

これとこの次の二曲は、聴いていてたのしかった。とくに最後のアフリカンシンフォニー、すっと耳に入ってきてきもちよかった。演奏するほうも演奏に慣れていそうで、手放しにふわふわと聴いていられる感覚。余裕って大事。

吹奏楽のコンクールにもやっぱり行ってみたくなった。とくに社会人団体のをみてみたい。きっとすごいひとたちがたくさんいる。

宿河原のいつものお店、ポトスのオープンマイクに参加してきた

7 月 6 日、水曜日。

宿河原のいつものお店ことポトス ((ぼくが愛してやまない母校こと多摩高校の最寄り駅、宿河原駅の改札を出てすぐの洋食屋さんのこと。平和でおいしいごはんやさんであると同時に、地元のアー ティストのみなさまがよくライブ会場としてつかう場所でもある。ぼくもよく食べに行くし、ギター部の現役さんも OB 勢も重奏やら独奏やらで何度かお世話になっているところ))さんのオープンマイクの日 ((ポトスで月に数回行われる、いろいろな団体(もちろん個人でもよい)が八つくらい集まって、一団体 15 分くらいの枠でパフォーマンスを披露できる日のこと。音楽のひとが多いけれど、それに限らず、朗読とか、お笑いとか、なんでもありの自由な時間))、所属するバンド(?)の Rubinetto ((そのうち紹介できると思うので割愛するけど、簡単に言うと、アルトギターふたつとアコースティックギターひとつとアルトチェンバロギターひとつとバスギターひとつとベースウクレレひとつを使った、結成してまだ半年も経っていないインストゥルメンタルバンド)) として枠をひとつもらって、二曲だけ演奏してきた。

ギターを始めて 12 年目、これまでいろいろなステージに立ってきたつもりだけれど、どれもお客さんはぼくらのギターの音を聴く前提で来ている方々ばかりだった。演奏者とお客さんの間でそういう前提が共有されていると、弾くほうも弾きやすいし、聴くほうも聴きやすい。どちらにとってもよいことだけど、悪くいえば箱庭的温室的内輪感から抜けにくくなっている要因でもあった。

そんな中で今回、お客さんとしてぼくらの前に座っている数十名の方々のほとんどは、ぼくらが今日ここで演奏することを、ぼくらが弾き出すその瞬間まで知らなかった方々なわけで。何のネームバリュもない知名度ゼロの状態のぼくらが、いってしまえばたまたま同じ時間に同じ空間に居ただけの、わかりやすくいうと別にぼくらの音を聴きにきたわけではないお客さんを前に弾く。

これはぼくにとっては未体験の感覚で、なるほどこういう状態で弾くと弾く方も聴く方もこうなるのかと、ものすごく新鮮だった。個人的なミスはてんこもりだったので反省は大きいけれど、やっぱりひとの前で弾くことはどういう形態であれいろいろ見えて糧になるもので。こういうところでも闘えるようにならないといけない。

たった二曲だけだったけれど、たのしかった。お世辞にもギターの生音に音響的に向いているとは言えないハコではあるけれど、気張らずに演奏できる場所が近くにあることはすごく貴重だし、観客との距離が近くて生々しい反応がもらえるのはうれしいしたのしいしきもちがよい。

他の出演者の方ともいろいろお話もできたし、知らない曲を紹介してもらえたし、知らない世界も観られたし、ライドシンバルを菜箸で操る謎のおじさんとフルートのおねえさんともセッションもできて、盛りだくさんだった。

地元の方々に愛される空間は居心地がよい。今度は単独でなにかできたらいいなあと、そんなことを思った。

虹晴れギターアンサンブルコンサートに行ってきた

UnisOno さん主催の、虹晴れギターアンサンブルコンサート。友人知人がぞろぞろと出演するので行ってきた。7 月 6 日、相模女子大学グリーンホールの多目的ホールにて。

出演団体は全部で四つで、アンサンブルレインボーさん、ギターアンサンブルピュルテさん、ギターアンサンブル木の響さん、そして主催の UnisOno さん。どこもこの近辺を中心に活動を続けている団体で、ピュルテさんは結成して 19 年、レインボーさんはもう 28 年だそうで。みなさん歴史がある。

どの団体も、団体ごとの嗜好と対象とする聴衆の違いがひじょうに色濃く出た曲目。

個人的な好みを白状すると、ギターアンサンブルでのポップスってどうあがいてもポップにはなれない気がしていて、実は弾くのも聴くのもだいぶ苦手な分野。とはいえ結局はどこも各々が活動するフィールドに合わせた選曲なわけで、そこでぼくの好み云々を言ってもどうしようもないし、まあたまにはそういう演奏会もあるよね。

……と思うくらいにはポップスが多いプログラムの中で、クラシック主体で曲を並べてきた UnisOno さんには、だからちょっと期待していたのだけれど、これはこれで何とも、何とも……。

指揮者が居なくてもこの人数とこの曲目を空中分解させないで最後まで流せるのはこの方々のつよいところではあるとは思うものの、そうはいってもこの人数とこの曲目でこれ以上の演奏を目指すならやっぱり指揮(またはそれと同等の柱になりうるコンサートマスタかコンサートミストレス)はいないとつらいのではと。

こんみすさんに音を集めようとはしていたようだけれど、その所為で表現にエネルギィを使えていない印象で、高校生のように若さと活力にみちあふれているわけでもなく、かといって OB らしいオトナな上品さにみちているわけでもなく、できあがりはどっちつかずなぼんやりとした音楽。

そんな中でもガリレオさんの曲は、弾き手のテンションも高かったし、勢いに乗って音もうまく合ってきていたので群を抜いて聴きやすかった。他の曲もこうなればたのしいのになあと。惜しいところ。

先日のロビィコンサートのときはそこまで違和感はなかったし気軽に聴けていたので、いっそのことあのくらいのカジュアルさを前面に出してくれたほうがぼくには魅力的にうつる。もっとも、あのときは指揮がいたから、その影響もあるのかもしれないけれど。

団体として何を理想としてどういうモチベーションで活動しているのか、ちょっと気になった演奏だった。あの団体もいろいろな演奏会に出るようになって、結成当初より露出は圧倒的に増えているわけだし、変化は折にふれて追っていきたい。

そんな感じでもやもやしながら帰った。ひとのふりみてなんとやらとも、よくいったものだなあと思いつつ。

Kindle for Android でフォントに “明朝” が選べなくなったときの対処

Android 端末(Xperia A)が修理から戻ってきたからアプリケーションをせこせこと入れなおしていたら、Kindle for Android の本文のフォントが “ゴシック” しか選べなくなっていたことに気が付いた。

もともと本は紙で読むひとだったので、これまではずっと紙の本に合わせて明朝体で読んでいたのだけれど。

ためしにゴシック体のまま読んでみたら違和感がすごくて気持ち悪い。直したい。

いろいろ調べてもいろいろ試してもよくわからないので、やむなくサポートセンタに問い合わせ。

チャット窓口ですぐに解決策が出てくるかと思いきや、詳細調査になって、結局返事が来るまで数日かかったけれど、最終的には直った。

直し方

カスタマサービスのひとに教えてもらった方法は二つ。

一つめは、『吾輩は猫である(Kindle 版)』をダウンロードしてみよ、というもの。

  1. Kindle for Android を開いて、右上のショッピングカートボタンをタップ
  2. 検索するなどして『吾輩は猫である(Kindle 版)』のページに行き、購入する
  3. 端末にダウンロードする
  4. 『吾輩は猫である(Kindle 版)』を開く
  5. フォントの選択肢を確認する

え、これだけ? と思ってやってみたら案の定直らなかった。

結局、教えてもらった二つめの方法で直った。英中辞書をダウンロードする方法。

  1. 英語が含まれている Kindle 本を開く
  2. どれでもいいので英単語を長押し
  3. 表示されるボックスの右上の本のマークをタップ
  4. [英語 – 中文] をタップして [ダウンロード]
  5. ダウンロード終了後、[全文表示] をタップ
  6. 端末の [戻る] ボタンで全文表示を終了
  7. 再度、どれでもいいので英単語を長押し
  8. 表示されるボックスの右上の本のマークをタップ
  9. [英語 – 日本語] をタップ
  10. フォントの選択肢を確認する

手順 7 から 9 はたぶん設定をもとに戻すためだけのもので、実質は手順 5 あたりで始まる外字フォントのダウンロードが効いているっぽい。

解決。

切り分け

問い合わせる前にこっち側で調べたのは以下。

  • 別の Android 端末では “明朝” が選べる
    • アプリケーションのバージョンは同一(4.5.1.6)
    • Android のバージョンがちがう(Xperia A は 4.2.2、こっちは 4.1)のでその所為?
    • もしくは機種に依存?
  • 特定の本に限らずどの本でも同じ症状である
  • アプリケーションをアンインストールして再度インストールしなおしても変わらない

原因

不明。

上の方法で直したあと、再現性を確認しようとしていちどアンインストールしてから再度インストールしたら、最初から “明朝” が表示されてしまった。再現性なし、という残念な結果に。直る前は数回入れなおしてもだめなままだったのに……。

あれかな、バンドルされていた辞書を全部消した状態で端末が修理で初期化されたから必要なコンポーネントがダウンロードされないままだったのかな。修理前の端末では上でいう外字フォントっぽいものが辞書にくっついて記憶のないままにダウンロードされていたのかもしれない。謎。

たぶんこの状態で端末を初期化したらきっと再現するだろうなあと思いながらも、そこまで深追いする意味もないのでここまで。

大宮高校ギター部の定期演奏会で、なつかしい堅実な音を聴いてきた

6 月 22 日、大宮高校ギター部さんの定期演奏会に行ってきた。

ここももうコンクールの演奏は長いこと聴いてきたけれど、定期演奏会にはまだ行ったことがなくて。いろいろと身の回りでも動きがあったので、行くにはよい頃合いかなあみたいな、そんな動機。

さびれた市民館での手作り感あふれる演奏会って、ぼくにはとても魅力的。自分の高校の頃を思い出すよね、この年季の入った市民館独特の空気がほんとうになつかしい。みなとみらいとかミューザとかそういうのもそれはそれでいいけど、やっぱりなんていうか、日常の延長で居られる空気の演奏会って大事。

冒頭の “シェリーに口づけ” をすごく手堅く平和にまとめてきていたので、なるほど今日の演奏会はこの空気なのねーと思っていたら、演奏後の MC がちょうハイテンションで『ハイど~も~☆』と始まって、このギャップが…… ギャップが……!!!

そうはいっても MC、とくに女性陣がよい空気を作れていた感じ。耳にやさしい自然体。”クラシックギター” というだけで身構えられがちなこの世界では、観客に力を抜いてもらうために MC は地味にだいじなので、その意味ですごくよく作用していたと思う。

でもだからこそ、白状すると、冒頭で感じた MC のテンションと演奏のテンションのギャップが、最後まで抜けきらなかったのはちょっと残念。

演奏はどの曲もとても堅実で、きっちりとしたほんとうにていねいなつくり。早いところや複雑なところでは若干の揺れもあったけれど、組み立てがうまいから基本的に不安を感じない演奏。

でも逆にいうと、いうなればとても優等生的で、すごくさらりとそつなく弾いてしまうので、魅せどころを魅せきらないままさくさくと進んでしまう面もあり。クラスにひとりふたり居る、涼しい顔をしてさらりと何でもうまくこなしてしまうひとのような、すごいと思う反面ちょっとものたりないとも思うような、そんな感覚もあった。このあたり、つくりかたがむずかしいところでもあるのだけれど……。

個人的にいちばんよかったのは、”人生のメリーゴーランド” の、とくにアルト勢だけで合わせるところ。あの感覚、テンポではなくうたで合わせるあの緊張感と濃く絡み合う空気、とてもよかった。もうすこしうたに合わせた音質になれると文句なしだったけど、それでもじゅうぶんよいうたいかただった。よかった。

あとはアンコールの一曲目。いちばん力が抜けていて、ラフな空気で気軽に聴けてたのしかった。この曲に限らず、プライムのストロークの安定感と勢いは全体のよい核になっていた感じ。ポップスが多めの演奏会だったからなおのこと。

あ、あとウクレレもちょうかわいかった。

“シェリーに口づけ” とか “大フーガ” とか、いろいろなギター合奏団体が昔から弾いている曲は、ここはこう弾くあそこはああ合わせるって、ある種の型が決まっているものが多い。だからその型がわかれば比較的短時間で形になるし、合わせる楽しさも味わいやすいのだけれど、でも言ってしまえば、演奏の “個性” はさらにその一歩先の世界から生まれるものなわけで。

手堅くまとめる力とか、ていねいかつさらっと弾ける力は、どう考えてもまちがいなく強みだから、その強みを活かした大宮高校ならではの音楽って何だろうって、そういう攻め方もありかもしれないなあと。

手堅くまとめるのはあのコーチの得意技(?)なので、いっしょにその先の何かをぶちやぶれると世界が広がりそうな気がする。もっと好き放題やっても平気だって、自由であることは許されているって、表現の振れ幅を爆発させる方法はきっとコーチが教えてくれる……!

個々人のポテンシャルは高そうだし、さてさてそうすると来年に向けてこの方々はどう変わっていくのかしらと。環境の変化は革命を起こすよい機会だし、コーチの手腕に期待ですね。

まずはコンクール、そしてその先の来年の定期演奏会へ。三ヶ月後と一年後、たのしい演奏をたのしみにしています。

ソニー吹奏楽団の定期演奏会で、緻密で丁寧な吹奏楽を聴いてきた

6 月 21 日。ソニー吹奏楽団さんの定期演奏会に呼ばれたので行ってきた。会場は文京シビックホールの大ホール。1,800 席ほどの大きなハコ。

去年は同じ日に他のコンサートもかぶっていて、ハシゴしたせいで 30 分くらいしか聴けなかったのだけれど、今年は本プログラムは全部聴けた。よかった。

先の 全国職場バンドフェスティバル のときは二曲だけだったからあまり意識しなかったけれど、こうやってソニーさんの音だけを二時間聴いていると、すごくまじめで、安定した丁寧な音づくりがされている印象を受ける。

音のバランス、楽器のまとまり、縦のつながり、リズム感、拍節感、緻密なところ、細かいところにすごくこだわって気が遣われていそうな。個々人のスキルに任せるところもありながらも、それよりはそれを基礎にして全体としてきれいに統率を取ることを是としている、とでもいうか、うまくいえないけどそういうつくり方なのかなあと思った。

ヤマハさんみたいにテンションあげあげで行く系とはちがって、だからソニーさんは言ってしまえば派手さはそこまでないのだけれど、その分純粋に音楽、パフォーマンスよりも音楽、みたいな空気。オーケストラに近いことを吹奏楽でやろうとしている感覚。指揮の川本先生がもともとその方面の方というのも関係があるのかしら、ないのかしら。どうかな。いずれにせよぼくはクラシック系の耳のひとなので、ひじょうに心地よく聴けた。

一曲目の序曲は演奏者も客席にもすこし堅さがあった(どの演奏会でもオープニングってそういうものよね、曲もパズル感があって合わせるのむずかしそうだったし)けど、二曲目で “わかりやすい” 曲調になって、会場全体の空気がやわらいだ気がした。あのねっとりとした低音のメロディと、その上で踊る高音、きもちがよい。

川本先生の指揮はクラシックっぽいなあと前に聴いたときも思ったのだけれど、秋山先生の指揮はそれに対してとても吹奏楽。うまくいえないのだけれど、はずみかたというかきざみかたというか、身体の遣い方とか姿勢とか……。話が若干ずれるけれど、指揮って、指揮者ごとの個性はもちろんあるものの、でもさらにその下のレイヤにジャンルごとの特性というものもある。

アルメニアンダンスは、演奏者の方々のこの曲に対する好意が感じ取れるような明るい空気だった。みんなたのしそう。そして曲の派手な流れと音圧をさらりとかわす指揮がまたかっこうよい。”激しい曲を涼しい顔で弾く演奏者” に感じるかっこうよさが指揮者にもあった。楽団そのものが指揮者にとってのひとつの大きな楽器。ぼくのだいすきなタイプ。

ガーシュインはリズム感がよかった。ガーシュイン特有の変態的(?)なリズムとコードの変化の目まぐるしさ、自分で(ギターで)弾いたときはぼくは最後まで慣れられなかったのだけれど、ソニーさんはさくっとノれていたようで、安心して聴けた。こういう曲をさらっと作ってくるあたり、先日の舞踏会の美女のワルツ感といい、楽団全体のリズム感覚のよさは強みなのかなあとか。

そして合唱は! いいですね! 大序曲! 吹奏楽と合唱という組み合わせは初めて聴いたのだけれど、合唱が入ってきた時の高ぶる空気がたまらなかった。チラシで “合唱付きで” と書かれているのを見たときは、合唱が吹奏楽にかき消されそうって思っていたけれど、ぜんぜんそんなことはなく。原理的な意味での楽器との帯域と音色の違いもあるだろうけれど、それにしたって合唱は合唱でべらぼうにうまくて、ぜんぜん吹奏楽に負けていなかった。吹奏楽だけでもいろいろな音が出せるとはいえ、そうはいっても人間の声の力ってやっぱりすごいなあなんて当たり前のことを思った。

音楽のジャンルの違いもさることながら、同じジャンルの中での団体ごとの個性もいろいろあるようで。シエナさんとか東京佼成さんとか、まだ聴けていない有名どころがたくさんあるので、時間をかけていろいろ聴いてみたい。

こうなると吹奏楽に関していまだにズブの素人のままなのが悔しくなってくるので、編成とか楽器とか吹奏楽の基礎基本がわかったうえでの吹奏楽的な聴き方もしてみたいから、すこしはお勉強でもしてみようと思う。

DANROK のポーランド公演記念コンサートで、突っ走るギターを聴いてきた

6 月 15 日。藤沢にある新堀学園の本館、その三階のオーケストラスタジオで。

DANROK さん、ポーランドの音楽のイベントに招待されたようで、今回はそれを記念して現地で弾くのと同じプログラムを先に日本で、という主旨らしい。

生で聴いたのはもう何回目かわからないけれど、見るたびに勢いが増している印象。昔(昔?)の DANROK さんは身体の遣い方になんとなく演技臭さとか不自然さがあって、見た目の所為で若干素直に聴けないところがあったのだけれど、最近(最近?)はどんどん違和感のない “自然な派手さ” になってきていてたのしい。

とはいえもちろん、本当に自然な身体の遣い方というよりは、どちらかといえば “演技” ではあるのだろうけど。でも演技しつくされて自然に見えるのか、あるいは演奏者の方々にとってはもはやあれが自然だからそう見えるのか、いずれにせよ演奏に合ったイイ派手さ。

ちょう派手な演奏とちょう派手な見た目の相乗効果で、全体がひじょうにイケているパフォーマンスになっていて、ひらたくいえばすごくかっこういい。はちゃめちゃに個々人が弾きまくって、一見てんでばらばらに好き勝手に暴れているようにしか見えないのだけれど、でもばっちり波が合っていて、がんがんアツくなっていくあの感じ。

聴いていても観ていても楽しいし、”外” にいるぼくでもそう思えるので、たぶんよいものなのです。

合奏用ギターを遣う団体やグループって、どうしてもクラシック音楽を核にしているところが多いから、だから DANROK さんみたいなカジュアル志向、観て楽しい聴いて楽しい “堅くない” 世界、派手で激しくてイケイケの曲を中心に据えている団体はぜんぜんない。

ぜんぜんないわりに、冷静に考えると DANROK さんの居るフィールドってギターに馴染みがない層の耳にも受け入れられやすそうで。クラシック音楽より敷居が圧倒的に低い聴きやすさだし、(濃くて暑苦しいけど)堅苦しくないし、もはやインストゥルメンタルバンドだし。

だからニッチな──だけど潜在的な需要は大きそうな──ところをうまく狙ってきたなあと。そして勢いにのってひとつのジャンルとしてもうしっかり成立しているし、うまいことやるなあと。

しかしこうなると新堀グループから離れて動いた方がフットワーク軽くなってやりやすいのではとも思うのだけれど、それはそれでいろいろ難しそうだなあとも。

演奏はやっぱり個々人のスキルのべらぼうな高さが際立つ音で。生音だったから PA にかき乱される こともなくて、とくに Rock of Mozart のトルコ行進曲で田口さんが抜け出てくるところ、あのうたい方と音色はさいこうだった……!

しかし慢性的にソプラノギターにちょっと聴きとりにくさが。がんがん攻める中低音勢に単音弾きアポヤンドのしかもソプラノギターであそこまで張り合える伊原さんも伊原さんだけど、それでも喰われてる感は否めなかった…… のが惜しいところ。でもきれいな音の出しにくさがはんぱないあの楽器を軽々と扱えるのはさすがだなあと。

NRM は全体で見た目を合わせてきていたのがちょっと残念。おいしい拍子木部分で本物の拍子木が出てきてしまったので、せっかくならそこもギターにすればいいのにとも。

でも全体的にどの曲も叩きやらカッティングやらのパーカッシブな音のいれかたはすごく好き。ギターを普通に弾いているだけでは出せないあの空気感はよいよね。例の『にゃー』もやっぱり全然嫌味な感じはなくて、やりきるとやりきれるというかぶっ飛びきってくれるとぶっ飛びきれるんだなーって思った。学生が真似するとどうしても “真似” になっちゃってね、違和感がね。

休憩なしで 14 曲突っ走る、演奏会でもコンサートでもなく、”ライブ” っていう言葉のほうが似合う空気。よい。とにかくテンションあげてひたすらエネルギィぶつける系のああいう弾き方も、ぼくもしてみたいよね。

勢いで CD を買ったら存外によいものだったし、また何かにつけて聴きに行きたいところ。もう少しお安くなるとうれしいんだけど……。

多摩高校、校舎にまつわるモノと記憶

ついに取り壊しが始まると、そう聴いた。

新校舎と旧校舎が、同窓会と称して卒業生に開放された 5 月 31 日。多摩高校、もうしばらく行くことはないだろうと思っていたぼくの母校へ、ぼくはもう一度行ってきた。

3 棟と 4 棟、取り壊しはここからはじまるらしい。

うろついてみてももうなにも残っていなくて、転がっているのは歴史の残骸で、漂っているのも歴史の残骸で、染み付いているのも歴史の残骸で、そして残骸にはもう未来がない。

歴史は記憶としてモノそれ自体に宿る。脳にはそれから漏れ出た残滓がこびりついて、それがぼくに思い出させるだけ。モノが消えれば歴史も記憶も消えて、ぼくにとっては残滓がすべてになる。そんな感覚。

それでも、時間はあたらしい歴史をつくってくれる。ぼくが何を思おうと何を感じようと何を考えようと、それとはまったく無関係に、彼らは彼らだけで新しい校舎で歴史をつくりながら生きていく。

好きに生きてほしいとか、楽しんでほしいとか、そう思うことすらもはや傲慢で暴慢で身勝手で、エゴイズムの塊を外野からどう投げつけたとしても、現実、彼らは勝手に生きていく。彼らの人生にぼくの出番はないし、もうあるべきですらない。

五十年の歴史は五十年かけないと見られない。それでも見たいなら、勝手に五十年生きればいい。

五十年後の学校沿革には、きっとたった一行、2014 年に校舎を建て替えたと、そう書かれるだけなのだろうけれど、その一行に詰め込まれた歴史の深さは、いまこのときを生きていないと見られないもので。

ぼくは多摩高校が好きだ。だから五十年後、ぼろぼろになったいまの新校舎を楽しそうな目で語る未来の卒業生に、ぼくは会ってみたいと思う。

ペペ・ロメロさんのコンサートで、伝説の銘器トーレスの音を聴いてきた

巨匠ペペ・ロメロさんが、伝説の銘器トーレスでタレガを弾く。そういう垂涎の企画があったから行ってきた。5 月 20 日、トッパンホール。

老成円熟した演奏、と思った。とてもしぶい……! 貫禄というか、正統というか。雑味のないかんじ。

パンフレット

イマドキのギタリストさんは定番曲でも自分なりのうたいかたで揺らしてくるひとがおおいイメージでいるのだけれど、この方はなんていうか…… そういうイマドキの流行り廃りを気にする世界とは別の世界に生きているような、正しく “枯れた” 時代、作曲者であるタレガさんに近い世界に生きている方なのかなって。

個性あふれるわけでもないし、派手さなんてぜんぜんないけど、逆にそれだけ純粋で、正統たる風格のあふれる世界。

トーレス、生で聴くのは初めてだった。タッチの所為か、ばつぐんに音がよいのかといわれればそんなこともないような気もしてしまって、名前が独り歩きしているところは少なからずありそうだなあとも思ったけれど、 でもよく乾いてるのにほんのりやわらかい音がした。

早い曲、明るい曲よりは、ゆったりとうたう曲のほうが相性がよく思えて、気持ちよく聴けた。すごく雑にいうと、こういう楽器でヨークとか弾いたらいろいろとイケてないダメな感じになるんだと思う。

冒険はしない、清く正しい演奏で、モダンなクラシックギターって本来はこういうものなんだって思える、そんな楽器と、そんな演奏だった。

個性あふれる演奏もいいけど、たまにはこういう年季の入ったまっすぐで純粋な音を聴いて、毒を抜きたいとも思った。

イマジン・ドラゴンズのライブで、ドラムサウンドに圧倒されてきた

前のエントリ で書いたブリトニー・スピアーズさんのライブの翌日、5 月 7 日、引き続きラスベガスの Sands Expo & Convention Center 内のホールにて。イマジン・ドラゴンズという方々の、某イベント参加者のための特別な、特に名前のない(たぶん……)ライブに行ってきた。

見えにくいけどドラムだらけ

この方々、来日もしたことがあるようで、どうやら有名らしいのだけれど、イベントの告知を受け取るまで知らなかった……。ぐぐる以上の予習することもなく、行ってよい立場にあったから行ったという、正しいファンの方々から殺されそうなモチベーション。でも行ったら圧倒された。ちょうたのしかった。行ってよかった。

会場の都合上、大がかりな舞台装置は無し。ささやかながらスクリーンと照明はあるものの、基本的にはストレートに “音” で勝負せざるを得ない場。そんな場でもものすごく圧倒的で魅力的なパフォーマンスが繰り広げられて、さすがプロだなーというかさすがロックだなーというか、そんなことを考えながらおなかにずんどこ響きまくる驚異的な音圧を感じていた。

狭くみえるけどちょう広い

盛り上げ方とか流れとか、U2 を彷彿とさせる曲が多くて、系統は似ているのかなあとは思った。でも打楽器の使い方がぜんぜん違って、ステージ上に並んでいるのは、ふつうのドラムセットのほかに、背丈ほどもある大きな和太鼓、小さい和太鼓、バスドラム、追加のフロアタム。ヴォーカルの方は片手にマイク、片手にマレット、ときにスティック、あるいは両手にマレット。

このたくさんの打楽器から繰り広げられる、攻めまくるほどに攻めまくるドラムサウンドがほんとうに気持ちよくて、なぜああも破綻させずにあそこまで圧をかけられるのか不思議だった。鼓膜の限界なんて気にしたくなかった。暴力的な音にもみくちゃにされることが心地よかった。

とりあえず CD をぽちったのだけれど、やっぱり CD には “現実的な音” しか入っていない。あの場で繰り広げられたような限界を無視した音はやっぱりライブでしか聴けない。次にこの方々が日本に来たら、だから今度は自主的に行きたいと、そう思えてうれしかった。