先日の日曜日、4 月 20 日。
OB でもないのになにかと個人的に縁が多すぎるほどに多い、相模原中等教育学校クラシックギター部さんの定期演奏会。
相模大野高校から相模原中等教育学校に変わって六年目。中等学校の一期生が最上級生となる今年、初めて “中等生” のみによって開催される記念すべき演奏会。回数こそ高校のそれを受け継いで “第 26 回” と銘打ってはいるものの、その意味はほとんど “第 1 回” に等しい。
そんな演奏会、想像以上の演奏が聴けることを楽しみにしていたら、想像以上すぎるほどに想像以上すぎた。奇跡と思うことも厭わない、何の躊躇いもなくぼくはこれを手放しに賞賛できる、ぼくが聴いたのはそんな音だった。
ぼくがギターアンサンブルの世界に触れてからまだ十数年しか経っていないけれど、それでもそこそこの数の部活の演奏を聴いてきたし、それと同時にたくさんの『お客さん』にも会ってきた。
この世界にかぎらずどの分野のどの演奏会でも、”部活” の演奏会であれば、一般のお客さんがよく言うのは、『かっこうよかった』『うまかった』『すごかった』『きれいだった』というだいたいが至極まっとうで前向きな評価。でもそれはまた同時に、だいたいが『まだ中学生なのに』とか『高校生にしては』とか、そういう暗黙のうちに共有される接頭辞があってのもので、平たく言えばそもそもの評価基準が低い。だからこそ当の学生からすれば、そういう色眼鏡を通さない “まっとうな評価” を得るのはひどく難しいことでもある。
純粋に、音楽としてどうなのか。ギターとしてどうなのか。ギター合奏としてどうなのか。
とはいうものの、組織のアイデンティティとして “部活” という絶対の事実はあるわけで、であれば “たのしいは正義” という側面があるのも事実なわけで、自分の中の評価軸をどこに持つか、どう前提を置くか、どういう姿勢で聴くか、演奏を聴くときはいつも悩ましいのだけれど、今回のこの演奏会は、いつも以上に部活だとか学生だとかそういう能書きのどうでもよすぎるどうでもよさが強烈に身に染みたものだった。
もちろん曲によって出来はばらばらではあったけれど、それでもあの演奏が “学生” である彼らによってつくられた現実を、ぼくは認めたくなかった。だからこそぼくは、あのさいこうの演奏が、ぼくの “友人たち” によってつくられた事実を全力で肯定したいし、心から歓迎して受け入れたい。そう思えることが、ぼくはたまらなくうれしい。
ほんとうに、よいものを観た。
指揮は言うまでもなく当たり前のようにぶっとんでいる。指揮だけぶっとんでいるのとか、演奏に指揮が追いついていないとか、そんなものはそこらじゅうに転がっているのだけれど、でも演奏があの指揮にがっつり食いついていけている世界が、こんな近くにあったというのは予想外。冗談抜きで奇跡的な完成度。
JGA 界隈の学生指揮者というと、指導陣のクセがうつって “JAEM 風” っぽく見えることがよくあるのだけれど、あの指揮者はもう自分のスタイルを確立して、完全に独立しているように見える。演奏者の食らいつきを余裕で受け流す瞬間、受け入れる瞬間。圧をかける瞬間。抜く瞬間。刺す瞬間、歩く瞬間、踊る瞬間。お互いにわかりきっているからこそできる、ほんとうにリアルタイムの、あの場のあの瞬間でしか作り得ない、一瞬の視線と音と、空気と呼吸だけで信頼できる仲間と意思を伝え合うやりとりのおもしろさ、たのしさ。そんな世界を全身で味わいつくそうとしている筋肉の動きが見える背中は、客席から見ているとほんとうにかっこういい。
そしてそういう指揮者に身をゆだねて、ギターを意のままに爆発させる、演奏者側の一期生。うすっぺらい感動物語とかみせかけばかりのうさんくさい絆とかいう概念があふれるこの時代に、ほんとうにきれいで純粋な信頼関係を見られた気がした。
至高だったのは、そんな一期生十人によるベートーヴェンのセリオーソ。指揮はなくて、全員が演奏者。自由に、ほんとうに自由に音楽をつくっていて、この演奏会でいちばんこれが好きだった。何にも縛られずに、その場の空気に全身を預けて、流れにのって弾く。お互いもはや目を合わせる必要もなさそうな、目をつぶっていても完璧に意思の疎通がはかれそうな、そんな濃密な空気。
色のまったくちがう細かな断片が散りばめられたあの曲を、よくもまああそこまで分析して解釈して、そしてその通りに表現しきってくれたものだと。厳しい音を弾ききった次の瞬間、まったく違う表情で踊り出てくるなめらかなアルトギターの音。なかなか聴けるものではない。数字だけ考えればパート間の人数比もあまりよくはなかったのだけれど、彼らにとってはこれこそが最高の比率のようで、実際、一分の隙もなく緻密に組み立てられていた印象。
ほんとうに好きで、ほんとうにたのしくて、ほんとうにこれがやりたくて、だからこそいまあそこに居て、いまああいう音づくりができているのだと。そう思わざるを得ない、おそろしくきれいな世界。
セリオーソだけでなくて、バルトークも至高だった。コンクール曲だけあって、はっきりと完成されている感がある。コンクールのときもそうだったけれど、コンクール以上に冒頭部で瞬時に惹きつけられたまま、ほんとうにあっという間に終わってしまった。
アラジンはちょうばかっぽい(ほめてる)演出とはうらはらに、しっかり丁寧にきれいだったのでよい意味ですごく裏切られたし、一年前は小学生だった二年生がタッチで身体をがんがんつかえていて衝撃だったし ((よい先輩のよい生き方をみて育ったからかしらね、やっぱり))。Surge III は、意図しているのかいないのかわからないけれど荒っぽさがすごく Surge っぽくて好きだったし ((多摩のより好きだった))、Surge V はコンクールのときよりあっさりしていて、曲調と相まってさわやかさがよく表れていたし ((竹内先生らしからぬさわやかさなので、もともとこってりねちねち弾くべきものではないって思ってる))。
反面、闘牛士が若干曲に負け気味で理想と現実が噛み合ってなかったりとか ((理想が先走って、現実が追い付けていない感じ))、指揮がちょっと猫背だったりとか ((肩を張って顎を引いたらよくなりそう))。車輪の歌がちょっとぐちゃぐちゃ感あったりとか ((これはちょっと残念だった…… メロディが聴こえない。ポップスよりクラシック曲のほうが得意そう))。アレグロがちょっときれいすぎて逆にもやっとしていたりとか ((あのテンポで回っていたのは衝撃だった。鋭い音と甘い音を使い分けて、はっきりきっぱりしたコントラストが出せるようになるともっとよさそう。個人的には原譜で sul G の指定があるところの sul G っぽさにはぜひこだわってほしいところ。もちろん、コンクールをめがけた曲だから、今の時期のこの段階であれこれいうべきものではないのだけれど))。弾く人数が少ないところではそもそも音量がホールに負けている感が否めなかったりとか ((前の方の席だったからよかったけど、後ろまで届いていたか怪しい気が。ソロとかとくに……。技術的な意味で楽器をもっとよく鳴らせば音量も稼げそうではある))。
いろいろあったけれど、総じて、とんでもない演奏会だったと思う。極端に言えば、”学生のギターアンサンブル” の奇跡的な完成形めいたものが見えた気がした、そんな演奏会だった。
とはいえ、こうなると来年以降がものすごく、ほんとうにものすごく大変そう。
一期生は、一期生だからこそ、五年間ずっと先頭に立っていた、というか、立たざるを得なかったはず。”先輩” が居ないから、自分たちの前には誰もいなくて、すべてを自分たちで作らなければならなかったし、自分たちが先陣を切らなければならない責務があったはず。
一期生には圧倒的なカリスマ性がある。これはもうおそらく事実で、でもそれはもって生まれた部分以上に、五年間かけて培われた部分がひじょうに大きいと思っている。SSSCGC の創造主たる “神” 、あるいは “伝説” の一期生を、二期生は追いつくだけでなく追いこさないといけない。
一期生の部活に対する方法論は、きっとあの十人だからできたものだし、十人という人数だからこそのものでもありそう。五年間ずっと先頭に立っていた一期生と、四年間ずっと自分たちをひっぱってくれるひとがいた二期生のギャップは、たぶん想像以上に大きい。二期生は二期生で、じぶんたちの方法を模索して、確立しないといけない。
組織は、創設した代が抜けてからが本番。きっとおそろしく大変だけれど、それ以上におそろしくたのしい世界だから、やりたいようにやって、こらえながらも余裕をもってくぐりぬけてほしいと思う。彼らがコンクールまでどう生きて、定期演奏会までどう生きるのか、新しい伝説になることを、全力で期待したい。
彼らと関われて、ほんとうによかった。この演奏会を作り上げてくれたことが、ひとりの友人として、ぼくはとても誇らしい。
そしていつか、彼らと同じステージに立てたらいいなあと、そんなことを思っている。