Kindle for Android でフォントに “明朝” が選べなくなったときの対処

Android 端末(Xperia A)が修理から戻ってきたからアプリケーションをせこせこと入れなおしていたら、Kindle for Android の本文のフォントが “ゴシック” しか選べなくなっていたことに気が付いた。

もともと本は紙で読むひとだったので、これまではずっと紙の本に合わせて明朝体で読んでいたのだけれど。

ためしにゴシック体のまま読んでみたら違和感がすごくて気持ち悪い。直したい。

いろいろ調べてもいろいろ試してもよくわからないので、やむなくサポートセンタに問い合わせ。

チャット窓口ですぐに解決策が出てくるかと思いきや、詳細調査になって、結局返事が来るまで数日かかったけれど、最終的には直った。

直し方

カスタマサービスのひとに教えてもらった方法は二つ。

一つめは、『吾輩は猫である(Kindle 版)』をダウンロードしてみよ、というもの。

  1. Kindle for Android を開いて、右上のショッピングカートボタンをタップ
  2. 検索するなどして『吾輩は猫である(Kindle 版)』のページに行き、購入する
  3. 端末にダウンロードする
  4. 『吾輩は猫である(Kindle 版)』を開く
  5. フォントの選択肢を確認する

え、これだけ? と思ってやってみたら案の定直らなかった。

結局、教えてもらった二つめの方法で直った。英中辞書をダウンロードする方法。

  1. 英語が含まれている Kindle 本を開く
  2. どれでもいいので英単語を長押し
  3. 表示されるボックスの右上の本のマークをタップ
  4. [英語 – 中文] をタップして [ダウンロード]
  5. ダウンロード終了後、[全文表示] をタップ
  6. 端末の [戻る] ボタンで全文表示を終了
  7. 再度、どれでもいいので英単語を長押し
  8. 表示されるボックスの右上の本のマークをタップ
  9. [英語 – 日本語] をタップ
  10. フォントの選択肢を確認する

手順 7 から 9 はたぶん設定をもとに戻すためだけのもので、実質は手順 5 あたりで始まる外字フォントのダウンロードが効いているっぽい。

解決。

切り分け

問い合わせる前にこっち側で調べたのは以下。

  • 別の Android 端末では “明朝” が選べる
    • アプリケーションのバージョンは同一(4.5.1.6)
    • Android のバージョンがちがう(Xperia A は 4.2.2、こっちは 4.1)のでその所為?
    • もしくは機種に依存?
  • 特定の本に限らずどの本でも同じ症状である
  • アプリケーションをアンインストールして再度インストールしなおしても変わらない

原因

不明。

上の方法で直したあと、再現性を確認しようとしていちどアンインストールしてから再度インストールしたら、最初から “明朝” が表示されてしまった。再現性なし、という残念な結果に。直る前は数回入れなおしてもだめなままだったのに……。

あれかな、バンドルされていた辞書を全部消した状態で端末が修理で初期化されたから必要なコンポーネントがダウンロードされないままだったのかな。修理前の端末では上でいう外字フォントっぽいものが辞書にくっついて記憶のないままにダウンロードされていたのかもしれない。謎。

たぶんこの状態で端末を初期化したらきっと再現するだろうなあと思いながらも、そこまで深追いする意味もないのでここまで。

大宮高校ギター部の定期演奏会で、なつかしい堅実な音を聴いてきた

6 月 22 日、大宮高校ギター部さんの定期演奏会に行ってきた。

ここももうコンクールの演奏は長いこと聴いてきたけれど、定期演奏会にはまだ行ったことがなくて。いろいろと身の回りでも動きがあったので、行くにはよい頃合いかなあみたいな、そんな動機。

さびれた市民館での手作り感あふれる演奏会って、ぼくにはとても魅力的。自分の高校の頃を思い出すよね、この年季の入った市民館独特の空気がほんとうになつかしい。みなとみらいとかミューザとかそういうのもそれはそれでいいけど、やっぱりなんていうか、日常の延長で居られる空気の演奏会って大事。

冒頭の “シェリーに口づけ” をすごく手堅く平和にまとめてきていたので、なるほど今日の演奏会はこの空気なのねーと思っていたら、演奏後の MC がちょうハイテンションで『ハイど~も~☆』と始まって、このギャップが…… ギャップが……!!!

そうはいっても MC、とくに女性陣がよい空気を作れていた感じ。耳にやさしい自然体。”クラシックギター” というだけで身構えられがちなこの世界では、観客に力を抜いてもらうために MC は地味にだいじなので、その意味ですごくよく作用していたと思う。

でもだからこそ、白状すると、冒頭で感じた MC のテンションと演奏のテンションのギャップが、最後まで抜けきらなかったのはちょっと残念。

演奏はどの曲もとても堅実で、きっちりとしたほんとうにていねいなつくり。早いところや複雑なところでは若干の揺れもあったけれど、組み立てがうまいから基本的に不安を感じない演奏。

でも逆にいうと、いうなればとても優等生的で、すごくさらりとそつなく弾いてしまうので、魅せどころを魅せきらないままさくさくと進んでしまう面もあり。クラスにひとりふたり居る、涼しい顔をしてさらりと何でもうまくこなしてしまうひとのような、すごいと思う反面ちょっとものたりないとも思うような、そんな感覚もあった。このあたり、つくりかたがむずかしいところでもあるのだけれど……。

個人的にいちばんよかったのは、”人生のメリーゴーランド” の、とくにアルト勢だけで合わせるところ。あの感覚、テンポではなくうたで合わせるあの緊張感と濃く絡み合う空気、とてもよかった。もうすこしうたに合わせた音質になれると文句なしだったけど、それでもじゅうぶんよいうたいかただった。よかった。

あとはアンコールの一曲目。いちばん力が抜けていて、ラフな空気で気軽に聴けてたのしかった。この曲に限らず、プライムのストロークの安定感と勢いは全体のよい核になっていた感じ。ポップスが多めの演奏会だったからなおのこと。

あ、あとウクレレもちょうかわいかった。

“シェリーに口づけ” とか “大フーガ” とか、いろいろなギター合奏団体が昔から弾いている曲は、ここはこう弾くあそこはああ合わせるって、ある種の型が決まっているものが多い。だからその型がわかれば比較的短時間で形になるし、合わせる楽しさも味わいやすいのだけれど、でも言ってしまえば、演奏の “個性” はさらにその一歩先の世界から生まれるものなわけで。

手堅くまとめる力とか、ていねいかつさらっと弾ける力は、どう考えてもまちがいなく強みだから、その強みを活かした大宮高校ならではの音楽って何だろうって、そういう攻め方もありかもしれないなあと。

手堅くまとめるのはあのコーチの得意技(?)なので、いっしょにその先の何かをぶちやぶれると世界が広がりそうな気がする。もっと好き放題やっても平気だって、自由であることは許されているって、表現の振れ幅を爆発させる方法はきっとコーチが教えてくれる……!

個々人のポテンシャルは高そうだし、さてさてそうすると来年に向けてこの方々はどう変わっていくのかしらと。環境の変化は革命を起こすよい機会だし、コーチの手腕に期待ですね。

まずはコンクール、そしてその先の来年の定期演奏会へ。三ヶ月後と一年後、たのしい演奏をたのしみにしています。

ソニー吹奏楽団の定期演奏会で、緻密で丁寧な吹奏楽を聴いてきた

6 月 21 日。ソニー吹奏楽団さんの定期演奏会に呼ばれたので行ってきた。会場は文京シビックホールの大ホール。1,800 席ほどの大きなハコ。

去年は同じ日に他のコンサートもかぶっていて、ハシゴしたせいで 30 分くらいしか聴けなかったのだけれど、今年は本プログラムは全部聴けた。よかった。

先の 全国職場バンドフェスティバル のときは二曲だけだったからあまり意識しなかったけれど、こうやってソニーさんの音だけを二時間聴いていると、すごくまじめで、安定した丁寧な音づくりがされている印象を受ける。

音のバランス、楽器のまとまり、縦のつながり、リズム感、拍節感、緻密なところ、細かいところにすごくこだわって気が遣われていそうな。個々人のスキルに任せるところもありながらも、それよりはそれを基礎にして全体としてきれいに統率を取ることを是としている、とでもいうか、うまくいえないけどそういうつくり方なのかなあと思った。

ヤマハさんみたいにテンションあげあげで行く系とはちがって、だからソニーさんは言ってしまえば派手さはそこまでないのだけれど、その分純粋に音楽、パフォーマンスよりも音楽、みたいな空気。オーケストラに近いことを吹奏楽でやろうとしている感覚。指揮の川本先生がもともとその方面の方というのも関係があるのかしら、ないのかしら。どうかな。いずれにせよぼくはクラシック系の耳のひとなので、ひじょうに心地よく聴けた。

一曲目の序曲は演奏者も客席にもすこし堅さがあった(どの演奏会でもオープニングってそういうものよね、曲もパズル感があって合わせるのむずかしそうだったし)けど、二曲目で “わかりやすい” 曲調になって、会場全体の空気がやわらいだ気がした。あのねっとりとした低音のメロディと、その上で踊る高音、きもちがよい。

川本先生の指揮はクラシックっぽいなあと前に聴いたときも思ったのだけれど、秋山先生の指揮はそれに対してとても吹奏楽。うまくいえないのだけれど、はずみかたというかきざみかたというか、身体の遣い方とか姿勢とか……。話が若干ずれるけれど、指揮って、指揮者ごとの個性はもちろんあるものの、でもさらにその下のレイヤにジャンルごとの特性というものもある。

アルメニアンダンスは、演奏者の方々のこの曲に対する好意が感じ取れるような明るい空気だった。みんなたのしそう。そして曲の派手な流れと音圧をさらりとかわす指揮がまたかっこうよい。”激しい曲を涼しい顔で弾く演奏者” に感じるかっこうよさが指揮者にもあった。楽団そのものが指揮者にとってのひとつの大きな楽器。ぼくのだいすきなタイプ。

ガーシュインはリズム感がよかった。ガーシュイン特有の変態的(?)なリズムとコードの変化の目まぐるしさ、自分で(ギターで)弾いたときはぼくは最後まで慣れられなかったのだけれど、ソニーさんはさくっとノれていたようで、安心して聴けた。こういう曲をさらっと作ってくるあたり、先日の舞踏会の美女のワルツ感といい、楽団全体のリズム感覚のよさは強みなのかなあとか。

そして合唱は! いいですね! 大序曲! 吹奏楽と合唱という組み合わせは初めて聴いたのだけれど、合唱が入ってきた時の高ぶる空気がたまらなかった。チラシで “合唱付きで” と書かれているのを見たときは、合唱が吹奏楽にかき消されそうって思っていたけれど、ぜんぜんそんなことはなく。原理的な意味での楽器との帯域と音色の違いもあるだろうけれど、それにしたって合唱は合唱でべらぼうにうまくて、ぜんぜん吹奏楽に負けていなかった。吹奏楽だけでもいろいろな音が出せるとはいえ、そうはいっても人間の声の力ってやっぱりすごいなあなんて当たり前のことを思った。

音楽のジャンルの違いもさることながら、同じジャンルの中での団体ごとの個性もいろいろあるようで。シエナさんとか東京佼成さんとか、まだ聴けていない有名どころがたくさんあるので、時間をかけていろいろ聴いてみたい。

こうなると吹奏楽に関していまだにズブの素人のままなのが悔しくなってくるので、編成とか楽器とか吹奏楽の基礎基本がわかったうえでの吹奏楽的な聴き方もしてみたいから、すこしはお勉強でもしてみようと思う。

DANROK のポーランド公演記念コンサートで、突っ走るギターを聴いてきた

6 月 15 日。藤沢にある新堀学園の本館、その三階のオーケストラスタジオで。

DANROK さん、ポーランドの音楽のイベントに招待されたようで、今回はそれを記念して現地で弾くのと同じプログラムを先に日本で、という主旨らしい。

生で聴いたのはもう何回目かわからないけれど、見るたびに勢いが増している印象。昔(昔?)の DANROK さんは身体の遣い方になんとなく演技臭さとか不自然さがあって、見た目の所為で若干素直に聴けないところがあったのだけれど、最近(最近?)はどんどん違和感のない “自然な派手さ” になってきていてたのしい。

とはいえもちろん、本当に自然な身体の遣い方というよりは、どちらかといえば “演技” ではあるのだろうけど。でも演技しつくされて自然に見えるのか、あるいは演奏者の方々にとってはもはやあれが自然だからそう見えるのか、いずれにせよ演奏に合ったイイ派手さ。

ちょう派手な演奏とちょう派手な見た目の相乗効果で、全体がひじょうにイケているパフォーマンスになっていて、ひらたくいえばすごくかっこういい。はちゃめちゃに個々人が弾きまくって、一見てんでばらばらに好き勝手に暴れているようにしか見えないのだけれど、でもばっちり波が合っていて、がんがんアツくなっていくあの感じ。

聴いていても観ていても楽しいし、”外” にいるぼくでもそう思えるので、たぶんよいものなのです。

合奏用ギターを遣う団体やグループって、どうしてもクラシック音楽を核にしているところが多いから、だから DANROK さんみたいなカジュアル志向、観て楽しい聴いて楽しい “堅くない” 世界、派手で激しくてイケイケの曲を中心に据えている団体はぜんぜんない。

ぜんぜんないわりに、冷静に考えると DANROK さんの居るフィールドってギターに馴染みがない層の耳にも受け入れられやすそうで。クラシック音楽より敷居が圧倒的に低い聴きやすさだし、(濃くて暑苦しいけど)堅苦しくないし、もはやインストゥルメンタルバンドだし。

だからニッチな──だけど潜在的な需要は大きそうな──ところをうまく狙ってきたなあと。そして勢いにのってひとつのジャンルとしてもうしっかり成立しているし、うまいことやるなあと。

しかしこうなると新堀グループから離れて動いた方がフットワーク軽くなってやりやすいのではとも思うのだけれど、それはそれでいろいろ難しそうだなあとも。

演奏はやっぱり個々人のスキルのべらぼうな高さが際立つ音で。生音だったから PA にかき乱される こともなくて、とくに Rock of Mozart のトルコ行進曲で田口さんが抜け出てくるところ、あのうたい方と音色はさいこうだった……!

しかし慢性的にソプラノギターにちょっと聴きとりにくさが。がんがん攻める中低音勢に単音弾きアポヤンドのしかもソプラノギターであそこまで張り合える伊原さんも伊原さんだけど、それでも喰われてる感は否めなかった…… のが惜しいところ。でもきれいな音の出しにくさがはんぱないあの楽器を軽々と扱えるのはさすがだなあと。

NRM は全体で見た目を合わせてきていたのがちょっと残念。おいしい拍子木部分で本物の拍子木が出てきてしまったので、せっかくならそこもギターにすればいいのにとも。

でも全体的にどの曲も叩きやらカッティングやらのパーカッシブな音のいれかたはすごく好き。ギターを普通に弾いているだけでは出せないあの空気感はよいよね。例の『にゃー』もやっぱり全然嫌味な感じはなくて、やりきるとやりきれるというかぶっ飛びきってくれるとぶっ飛びきれるんだなーって思った。学生が真似するとどうしても “真似” になっちゃってね、違和感がね。

休憩なしで 14 曲突っ走る、演奏会でもコンサートでもなく、”ライブ” っていう言葉のほうが似合う空気。よい。とにかくテンションあげてひたすらエネルギィぶつける系のああいう弾き方も、ぼくもしてみたいよね。

勢いで CD を買ったら存外によいものだったし、また何かにつけて聴きに行きたいところ。もう少しお安くなるとうれしいんだけど……。

多摩高校、校舎にまつわるモノと記憶

ついに取り壊しが始まると、そう聴いた。

新校舎と旧校舎が、同窓会と称して卒業生に開放された 5 月 31 日。多摩高校、もうしばらく行くことはないだろうと思っていたぼくの母校へ、ぼくはもう一度行ってきた。

3 棟と 4 棟、取り壊しはここからはじまるらしい。

うろついてみてももうなにも残っていなくて、転がっているのは歴史の残骸で、漂っているのも歴史の残骸で、染み付いているのも歴史の残骸で、そして残骸にはもう未来がない。

歴史は記憶としてモノそれ自体に宿る。脳にはそれから漏れ出た残滓がこびりついて、それがぼくに思い出させるだけ。モノが消えれば歴史も記憶も消えて、ぼくにとっては残滓がすべてになる。そんな感覚。

それでも、時間はあたらしい歴史をつくってくれる。ぼくが何を思おうと何を感じようと何を考えようと、それとはまったく無関係に、彼らは彼らだけで新しい校舎で歴史をつくりながら生きていく。

好きに生きてほしいとか、楽しんでほしいとか、そう思うことすらもはや傲慢で暴慢で身勝手で、エゴイズムの塊を外野からどう投げつけたとしても、現実、彼らは勝手に生きていく。彼らの人生にぼくの出番はないし、もうあるべきですらない。

五十年の歴史は五十年かけないと見られない。それでも見たいなら、勝手に五十年生きればいい。

五十年後の学校沿革には、きっとたった一行、2014 年に校舎を建て替えたと、そう書かれるだけなのだろうけれど、その一行に詰め込まれた歴史の深さは、いまこのときを生きていないと見られないもので。

ぼくは多摩高校が好きだ。だから五十年後、ぼろぼろになったいまの新校舎を楽しそうな目で語る未来の卒業生に、ぼくは会ってみたいと思う。

ペペ・ロメロさんのコンサートで、伝説の銘器トーレスの音を聴いてきた

巨匠ペペ・ロメロさんが、伝説の銘器トーレスでタレガを弾く。そういう垂涎の企画があったから行ってきた。5 月 20 日、トッパンホール。

老成円熟した演奏、と思った。とてもしぶい……! 貫禄というか、正統というか。雑味のないかんじ。

パンフレット

イマドキのギタリストさんは定番曲でも自分なりのうたいかたで揺らしてくるひとがおおいイメージでいるのだけれど、この方はなんていうか…… そういうイマドキの流行り廃りを気にする世界とは別の世界に生きているような、正しく “枯れた” 時代、作曲者であるタレガさんに近い世界に生きている方なのかなって。

個性あふれるわけでもないし、派手さなんてぜんぜんないけど、逆にそれだけ純粋で、正統たる風格のあふれる世界。

トーレス、生で聴くのは初めてだった。タッチの所為か、ばつぐんに音がよいのかといわれればそんなこともないような気もしてしまって、名前が独り歩きしているところは少なからずありそうだなあとも思ったけれど、 でもよく乾いてるのにほんのりやわらかい音がした。

早い曲、明るい曲よりは、ゆったりとうたう曲のほうが相性がよく思えて、気持ちよく聴けた。すごく雑にいうと、こういう楽器でヨークとか弾いたらいろいろとイケてないダメな感じになるんだと思う。

冒険はしない、清く正しい演奏で、モダンなクラシックギターって本来はこういうものなんだって思える、そんな楽器と、そんな演奏だった。

個性あふれる演奏もいいけど、たまにはこういう年季の入ったまっすぐで純粋な音を聴いて、毒を抜きたいとも思った。

イマジン・ドラゴンズのライブで、ドラムサウンドに圧倒されてきた

前のエントリ で書いたブリトニー・スピアーズさんのライブの翌日、5 月 7 日、引き続きラスベガスの Sands Expo & Convention Center 内のホールにて。イマジン・ドラゴンズという方々の、某イベント参加者のための特別な、特に名前のない(たぶん……)ライブに行ってきた。

見えにくいけどドラムだらけ

この方々、来日もしたことがあるようで、どうやら有名らしいのだけれど、イベントの告知を受け取るまで知らなかった……。ぐぐる以上の予習することもなく、行ってよい立場にあったから行ったという、正しいファンの方々から殺されそうなモチベーション。でも行ったら圧倒された。ちょうたのしかった。行ってよかった。

会場の都合上、大がかりな舞台装置は無し。ささやかながらスクリーンと照明はあるものの、基本的にはストレートに “音” で勝負せざるを得ない場。そんな場でもものすごく圧倒的で魅力的なパフォーマンスが繰り広げられて、さすがプロだなーというかさすがロックだなーというか、そんなことを考えながらおなかにずんどこ響きまくる驚異的な音圧を感じていた。

狭くみえるけどちょう広い

盛り上げ方とか流れとか、U2 を彷彿とさせる曲が多くて、系統は似ているのかなあとは思った。でも打楽器の使い方がぜんぜん違って、ステージ上に並んでいるのは、ふつうのドラムセットのほかに、背丈ほどもある大きな和太鼓、小さい和太鼓、バスドラム、追加のフロアタム。ヴォーカルの方は片手にマイク、片手にマレット、ときにスティック、あるいは両手にマレット。

このたくさんの打楽器から繰り広げられる、攻めまくるほどに攻めまくるドラムサウンドがほんとうに気持ちよくて、なぜああも破綻させずにあそこまで圧をかけられるのか不思議だった。鼓膜の限界なんて気にしたくなかった。暴力的な音にもみくちゃにされることが心地よかった。

とりあえず CD をぽちったのだけれど、やっぱり CD には “現実的な音” しか入っていない。あの場で繰り広げられたような限界を無視した音はやっぱりライブでしか聴けない。次にこの方々が日本に来たら、だから今度は自主的に行きたいと、そう思えてうれしかった。

ブリトニー・スピアーズさんの定期公演、Peace of Me に行ってきた

だいぶ前の話になるけど、5 月 6 日、火曜日のこと。ブリトニー・スピアーズさんの定期公演、Peace of Me に行ってきた。

会場はラスベガスの The Axis。Planet Hollywood というホテルの中にあるホール。もともとキャパシティが 7,000 くらいのすごく大きいところだったらしいんだけど、全部で 80 回くらい行われるこの定期公演のため(!)に 360 度の映像投影ができる環境がつくられて、その影響で席が 4,600 まで減ったとのこと。それでも 4,600 てすごいよね。

初めて知ったんだけど、世の中には “Residency Show” という公演形態があるようで、これは一定の期間内に同じ題目で同じ場所で公演を何回も開くものらしい。期間が決まってて同じ題目で何回も開催という意味では、いわゆる “ツアー” ととても似ているけれど、会場が全部同じ、というところがツアーとは違う、みたいなやつ。

この演出かっこうよかった!

正直なところこの公演は『連れて行かれた』というのが事実で、そもそも行くこと自体を当日まで──正確にいえば開演の数時間前まで──知らされていなかったし、そしてぼくはブリトニーさんのことをあまりにも知らない。

とはいえ音楽系のイベントならだいたいは楽しめるので、今から行くよといわれた瞬間にはうれしかったことを覚えている。

実際、派手な舞台装置と派手な映像と派手な衣装がうまいこと組み合わさってて視界全体でたのしめたり、バックダンサのキレがすてきでかっこうよかったり、ホールが “Powered by MONSTER” なだけあってちょうよい大爆音だったり、いろいろおもしろかった。

見慣れたロゴ

最近は大規模な映像投影も当たり前になってきたみたいで、物理的な舞台装置の圧倒的な現実感と迫力を、作り込まれた映像の抽象感が思いっきり引き上げてる感があった。そこにそれ専用の衣装をきた方々のダンスが加わって、そうやって世界がうまいこと作られていた。そして曲ごとにまるっきり世界は変わる。

舞台装置には舞台装置にしかできないことがあるし、映像表現には映像表現にしかできないことがあるし、身体表現には身体表現にしかできないことがある。制作コストと演出効果の関係とか予算の経年変化とかにも考えが及びかけたけど、何にせよ『良いとこ取り』できていた感があって。

最近とんとポピュラ音楽のライブには行かなくなっていたので、ひさしぶりの感覚だった。たのしかった。

調べると『口パク公演』とか言われているらしいけれど、この手のライブでそれを言っても誰も得しないよなあと。演奏会ではなくて “公演” なわけで、音楽だけでなくて演出含めてできあがっているものなわけで、ある意味で『総合芸術』的なものなわけで。売り物は音楽ではなく場であり空気であり体験そのものなので、そんな感じで味わえればよいと思った。

全身にずんどこひびく爆音は大好物なので、こういう音もたまには浴びに行きたい。

須川展也さんのデビュー 30 周年記念コンサートで、変幻自在のサクソフォンを聴いてきた

4 月 29 日、日曜日。須川展也さんのデビュー 30 周年記念コンサートに行ってきた。会場は東京文化会館、もちろん大ホール。

先日ふらりと観に行った 全国職場バンドフェスティバル で須川さん自身が宣伝されて、その日のうちにチケットを手配したこのコンサート。楽しみにしていたその期待以上にとても楽しいコンサートだった。

お久しぶりです

コンサートは二部構成で、第一部は須川さんとクラシックギター ((まさかの鈴木大介さん!))、須川さんとピアノ ((小柳美奈子さん))、須川さん含めたサクソフォン四重奏 ((トルヴェール・クヮルテットさん))とピアノ ((小柳美奈子さん))、という各構成での演奏。第二部はヤマハ吹奏楽団さん ((あいかわらずイケてるパーカッショニストさんが叩くタンバリンがさいこうだった))を迎えて、須川さんが指揮だったりソロだったりでの演奏 ((プログラム上は “吹き振り” がある予定だったけどなくなったようで、須川さんがソロの曲はすべて山下一史さんがタクトを持っていた))。全部で三時間ちかく、いろいろな演奏者、いろいろな編成、いろいろな曲、盛りだくさん。

もちろん大ホール

サクソフォンから三味線の音がしたときはほんとうに衝撃だった。そしてサクソフォンでもグリッサンド(ポルタメント?)ができることを初めて知った。音階を持つ(音階に縛られる)楽器とばかり。

全体的に、技術面でも音色面でも、サクソフォンであんな音出せるのか、という驚きの連続。何をどう吹けばああいう音になるのかさっぱり分からない。以前のエントリ でも書いた通り、吹奏楽に関しては相変わらずほんとうにド素人なので、専門用語は何もわからないけれど、素人目にも “普通ではない” ことは見て取れたし、きっと特殊奏法が山盛り詰まってたんだと思う。

おひる

多彩な表情があって、すばらしい世界だった。余裕のあるさいこうの熱演、とでもいうか、30 年というキャリアが培った音を生で聴けてほんとうによかった。耳を通じて脳に自然としみ込む心地よい時間。

須川さん、6 月にシエナさんとも共演されるようで、行きたいけど、土曜日……。

相模原中等教育学校クラシックギター部の定期演奏会で、とんでもなく奇跡的な演奏を聴いてきた

先日の日曜日、4 月 20 日。

OB でもないのになにかと個人的に縁が多すぎるほどに多い、相模原中等教育学校クラシックギター部さんの定期演奏会。

相模大野高校から相模原中等教育学校に変わって六年目。中等学校の一期生が最上級生となる今年、初めて “中等生” のみによって開催される記念すべき演奏会。回数こそ高校のそれを受け継いで “第 26 回” と銘打ってはいるものの、その意味はほとんど “第 1 回” に等しい。

そんな演奏会、想像以上の演奏が聴けることを楽しみにしていたら、想像以上すぎるほどに想像以上すぎた。奇跡と思うことも厭わない、何の躊躇いもなくぼくはこれを手放しに賞賛できる、ぼくが聴いたのはそんな音だった。

いいデザイン

ぼくがギターアンサンブルの世界に触れてからまだ十数年しか経っていないけれど、それでもそこそこの数の部活の演奏を聴いてきたし、それと同時にたくさんの『お客さん』にも会ってきた。

この世界にかぎらずどの分野のどの演奏会でも、”部活” の演奏会であれば、一般のお客さんがよく言うのは、『かっこうよかった』『うまかった』『すごかった』『きれいだった』というだいたいが至極まっとうで前向きな評価。でもそれはまた同時に、だいたいが『まだ中学生なのに』とか『高校生にしては』とか、そういう暗黙のうちに共有される接頭辞があってのもので、平たく言えばそもそもの評価基準が低い。だからこそ当の学生からすれば、そういう色眼鏡を通さない “まっとうな評価” を得るのはひどく難しいことでもある。

純粋に、音楽としてどうなのか。ギターとしてどうなのか。ギター合奏としてどうなのか。

とはいうものの、組織のアイデンティティとして “部活” という絶対の事実はあるわけで、であれば “たのしいは正義” という側面があるのも事実なわけで、自分の中の評価軸をどこに持つか、どう前提を置くか、どういう姿勢で聴くか、演奏を聴くときはいつも悩ましいのだけれど、今回のこの演奏会は、いつも以上に部活だとか学生だとかそういう能書きのどうでもよすぎるどうでもよさが強烈に身に染みたものだった。

もちろん曲によって出来はばらばらではあったけれど、それでもあの演奏が “学生” である彼らによってつくられた現実を、ぼくは認めたくなかった。だからこそぼくは、あのさいこうの演奏が、ぼくの “友人たち” によってつくられた事実を全力で肯定したいし、心から歓迎して受け入れたい。そう思えることが、ぼくはたまらなくうれしい。

ほんとうに、よいものを観た。

とくに意味のない写真

指揮は言うまでもなく当たり前のようにぶっとんでいる。指揮だけぶっとんでいるのとか、演奏に指揮が追いついていないとか、そんなものはそこらじゅうに転がっているのだけれど、でも演奏があの指揮にがっつり食いついていけている世界が、こんな近くにあったというのは予想外。冗談抜きで奇跡的な完成度。

JGA 界隈の学生指揮者というと、指導陣のクセがうつって “JAEM 風” っぽく見えることがよくあるのだけれど、あの指揮者はもう自分のスタイルを確立して、完全に独立しているように見える。演奏者の食らいつきを余裕で受け流す瞬間、受け入れる瞬間。圧をかける瞬間。抜く瞬間。刺す瞬間、歩く瞬間、踊る瞬間。お互いにわかりきっているからこそできる、ほんとうにリアルタイムの、あの場のあの瞬間でしか作り得ない、一瞬の視線と音と、空気と呼吸だけで信頼できる仲間と意思を伝え合うやりとりのおもしろさ、たのしさ。そんな世界を全身で味わいつくそうとしている筋肉の動きが見える背中は、客席から見ているとほんとうにかっこういい。

そしてそういう指揮者に身をゆだねて、ギターを意のままに爆発させる、演奏者側の一期生。うすっぺらい感動物語とかみせかけばかりのうさんくさい絆とかいう概念があふれるこの時代に、ほんとうにきれいで純粋な信頼関係を見られた気がした。

ぷりぷりでした

至高だったのは、そんな一期生十人によるベートーヴェンのセリオーソ。指揮はなくて、全員が演奏者。自由に、ほんとうに自由に音楽をつくっていて、この演奏会でいちばんこれが好きだった。何にも縛られずに、その場の空気に全身を預けて、流れにのって弾く。お互いもはや目を合わせる必要もなさそうな、目をつぶっていても完璧に意思の疎通がはかれそうな、そんな濃密な空気。

色のまったくちがう細かな断片が散りばめられたあの曲を、よくもまああそこまで分析して解釈して、そしてその通りに表現しきってくれたものだと。厳しい音を弾ききった次の瞬間、まったく違う表情で踊り出てくるなめらかなアルトギターの音。なかなか聴けるものではない。数字だけ考えればパート間の人数比もあまりよくはなかったのだけれど、彼らにとってはこれこそが最高の比率のようで、実際、一分の隙もなく緻密に組み立てられていた印象。

ほんとうに好きで、ほんとうにたのしくて、ほんとうにこれがやりたくて、だからこそいまあそこに居て、いまああいう音づくりができているのだと。そう思わざるを得ない、おそろしくきれいな世界。

こちらはお昼

セリオーソだけでなくて、バルトークも至高だった。コンクール曲だけあって、はっきりと完成されている感がある。コンクールのときもそうだったけれど、コンクール以上に冒頭部で瞬時に惹きつけられたまま、ほんとうにあっという間に終わってしまった。

アラジンはちょうばかっぽい(ほめてる)演出とはうらはらに、しっかり丁寧にきれいだったのでよい意味ですごく裏切られたし、一年前は小学生だった二年生がタッチで身体をがんがんつかえていて衝撃だったし ((よい先輩のよい生き方をみて育ったからかしらね、やっぱり))。Surge III は、意図しているのかいないのかわからないけれど荒っぽさがすごく Surge っぽくて好きだったし ((多摩のより好きだった))、Surge V はコンクールのときよりあっさりしていて、曲調と相まってさわやかさがよく表れていたし ((竹内先生らしからぬさわやかさなので、もともとこってりねちねち弾くべきものではないって思ってる))。

反面、闘牛士が若干曲に負け気味で理想と現実が噛み合ってなかったりとか ((理想が先走って、現実が追い付けていない感じ))、指揮がちょっと猫背だったりとか ((肩を張って顎を引いたらよくなりそう))。車輪の歌がちょっとぐちゃぐちゃ感あったりとか ((これはちょっと残念だった…… メロディが聴こえない。ポップスよりクラシック曲のほうが得意そう))。アレグロがちょっときれいすぎて逆にもやっとしていたりとか ((あのテンポで回っていたのは衝撃だった。鋭い音と甘い音を使い分けて、はっきりきっぱりしたコントラストが出せるようになるともっとよさそう。個人的には原譜で sul G の指定があるところの sul G っぽさにはぜひこだわってほしいところ。もちろん、コンクールをめがけた曲だから、今の時期のこの段階であれこれいうべきものではないのだけれど))。弾く人数が少ないところではそもそも音量がホールに負けている感が否めなかったりとか ((前の方の席だったからよかったけど、後ろまで届いていたか怪しい気が。ソロとかとくに……。技術的な意味で楽器をもっとよく鳴らせば音量も稼げそうではある))。

いろいろあったけれど、総じて、とんでもない演奏会だったと思う。極端に言えば、”学生のギターアンサンブル” の奇跡的な完成形めいたものが見えた気がした、そんな演奏会だった。

だーさら

とはいえ、こうなると来年以降がものすごく、ほんとうにものすごく大変そう。

一期生は、一期生だからこそ、五年間ずっと先頭に立っていた、というか、立たざるを得なかったはず。”先輩” が居ないから、自分たちの前には誰もいなくて、すべてを自分たちで作らなければならなかったし、自分たちが先陣を切らなければならない責務があったはず。

一期生には圧倒的なカリスマ性がある。これはもうおそらく事実で、でもそれはもって生まれた部分以上に、五年間かけて培われた部分がひじょうに大きいと思っている。SSSCGC の創造主たる “神” 、あるいは “伝説” の一期生を、二期生は追いつくだけでなく追いこさないといけない。

一期生の部活に対する方法論は、きっとあの十人だからできたものだし、十人という人数だからこそのものでもありそう。五年間ずっと先頭に立っていた一期生と、四年間ずっと自分たちをひっぱってくれるひとがいた二期生のギャップは、たぶん想像以上に大きい。二期生は二期生で、じぶんたちの方法を模索して、確立しないといけない。

ふわふわのレバー

組織は、創設した代が抜けてからが本番。きっとおそろしく大変だけれど、それ以上におそろしくたのしい世界だから、やりたいようにやって、こらえながらも余裕をもってくぐりぬけてほしいと思う。彼らがコンクールまでどう生きて、定期演奏会までどう生きるのか、新しい伝説になることを、全力で期待したい。

彼らと関われて、ほんとうによかった。この演奏会を作り上げてくれたことが、ひとりの友人として、ぼくはとても誇らしい。

そしていつか、彼らと同じステージに立てたらいいなあと、そんなことを思っている。