ソニー吹奏楽団の定期演奏会で、緻密で丁寧な吹奏楽を聴いてきた

6 月 21 日。ソニー吹奏楽団さんの定期演奏会に呼ばれたので行ってきた。会場は文京シビックホールの大ホール。1,800 席ほどの大きなハコ。

去年は同じ日に他のコンサートもかぶっていて、ハシゴしたせいで 30 分くらいしか聴けなかったのだけれど、今年は本プログラムは全部聴けた。よかった。

先の 全国職場バンドフェスティバル のときは二曲だけだったからあまり意識しなかったけれど、こうやってソニーさんの音だけを二時間聴いていると、すごくまじめで、安定した丁寧な音づくりがされている印象を受ける。

音のバランス、楽器のまとまり、縦のつながり、リズム感、拍節感、緻密なところ、細かいところにすごくこだわって気が遣われていそうな。個々人のスキルに任せるところもありながらも、それよりはそれを基礎にして全体としてきれいに統率を取ることを是としている、とでもいうか、うまくいえないけどそういうつくり方なのかなあと思った。

ヤマハさんみたいにテンションあげあげで行く系とはちがって、だからソニーさんは言ってしまえば派手さはそこまでないのだけれど、その分純粋に音楽、パフォーマンスよりも音楽、みたいな空気。オーケストラに近いことを吹奏楽でやろうとしている感覚。指揮の川本先生がもともとその方面の方というのも関係があるのかしら、ないのかしら。どうかな。いずれにせよぼくはクラシック系の耳のひとなので、ひじょうに心地よく聴けた。

一曲目の序曲は演奏者も客席にもすこし堅さがあった(どの演奏会でもオープニングってそういうものよね、曲もパズル感があって合わせるのむずかしそうだったし)けど、二曲目で “わかりやすい” 曲調になって、会場全体の空気がやわらいだ気がした。あのねっとりとした低音のメロディと、その上で踊る高音、きもちがよい。

川本先生の指揮はクラシックっぽいなあと前に聴いたときも思ったのだけれど、秋山先生の指揮はそれに対してとても吹奏楽。うまくいえないのだけれど、はずみかたというかきざみかたというか、身体の遣い方とか姿勢とか……。話が若干ずれるけれど、指揮って、指揮者ごとの個性はもちろんあるものの、でもさらにその下のレイヤにジャンルごとの特性というものもある。

アルメニアンダンスは、演奏者の方々のこの曲に対する好意が感じ取れるような明るい空気だった。みんなたのしそう。そして曲の派手な流れと音圧をさらりとかわす指揮がまたかっこうよい。”激しい曲を涼しい顔で弾く演奏者” に感じるかっこうよさが指揮者にもあった。楽団そのものが指揮者にとってのひとつの大きな楽器。ぼくのだいすきなタイプ。

ガーシュインはリズム感がよかった。ガーシュイン特有の変態的(?)なリズムとコードの変化の目まぐるしさ、自分で(ギターで)弾いたときはぼくは最後まで慣れられなかったのだけれど、ソニーさんはさくっとノれていたようで、安心して聴けた。こういう曲をさらっと作ってくるあたり、先日の舞踏会の美女のワルツ感といい、楽団全体のリズム感覚のよさは強みなのかなあとか。

そして合唱は! いいですね! 大序曲! 吹奏楽と合唱という組み合わせは初めて聴いたのだけれど、合唱が入ってきた時の高ぶる空気がたまらなかった。チラシで “合唱付きで” と書かれているのを見たときは、合唱が吹奏楽にかき消されそうって思っていたけれど、ぜんぜんそんなことはなく。原理的な意味での楽器との帯域と音色の違いもあるだろうけれど、それにしたって合唱は合唱でべらぼうにうまくて、ぜんぜん吹奏楽に負けていなかった。吹奏楽だけでもいろいろな音が出せるとはいえ、そうはいっても人間の声の力ってやっぱりすごいなあなんて当たり前のことを思った。

音楽のジャンルの違いもさることながら、同じジャンルの中での団体ごとの個性もいろいろあるようで。シエナさんとか東京佼成さんとか、まだ聴けていない有名どころがたくさんあるので、時間をかけていろいろ聴いてみたい。

こうなると吹奏楽に関していまだにズブの素人のままなのが悔しくなってくるので、編成とか楽器とか吹奏楽の基礎基本がわかったうえでの吹奏楽的な聴き方もしてみたいから、すこしはお勉強でもしてみようと思う。

DANROK のポーランド公演記念コンサートで、突っ走るギターを聴いてきた

6 月 15 日。藤沢にある新堀学園の本館、その三階のオーケストラスタジオで。

DANROK さん、ポーランドの音楽のイベントに招待されたようで、今回はそれを記念して現地で弾くのと同じプログラムを先に日本で、という主旨らしい。

生で聴いたのはもう何回目かわからないけれど、見るたびに勢いが増している印象。昔(昔?)の DANROK さんは身体の遣い方になんとなく演技臭さとか不自然さがあって、見た目の所為で若干素直に聴けないところがあったのだけれど、最近(最近?)はどんどん違和感のない “自然な派手さ” になってきていてたのしい。

とはいえもちろん、本当に自然な身体の遣い方というよりは、どちらかといえば “演技” ではあるのだろうけど。でも演技しつくされて自然に見えるのか、あるいは演奏者の方々にとってはもはやあれが自然だからそう見えるのか、いずれにせよ演奏に合ったイイ派手さ。

ちょう派手な演奏とちょう派手な見た目の相乗効果で、全体がひじょうにイケているパフォーマンスになっていて、ひらたくいえばすごくかっこういい。はちゃめちゃに個々人が弾きまくって、一見てんでばらばらに好き勝手に暴れているようにしか見えないのだけれど、でもばっちり波が合っていて、がんがんアツくなっていくあの感じ。

聴いていても観ていても楽しいし、”外” にいるぼくでもそう思えるので、たぶんよいものなのです。

合奏用ギターを遣う団体やグループって、どうしてもクラシック音楽を核にしているところが多いから、だから DANROK さんみたいなカジュアル志向、観て楽しい聴いて楽しい “堅くない” 世界、派手で激しくてイケイケの曲を中心に据えている団体はぜんぜんない。

ぜんぜんないわりに、冷静に考えると DANROK さんの居るフィールドってギターに馴染みがない層の耳にも受け入れられやすそうで。クラシック音楽より敷居が圧倒的に低い聴きやすさだし、(濃くて暑苦しいけど)堅苦しくないし、もはやインストゥルメンタルバンドだし。

だからニッチな──だけど潜在的な需要は大きそうな──ところをうまく狙ってきたなあと。そして勢いにのってひとつのジャンルとしてもうしっかり成立しているし、うまいことやるなあと。

しかしこうなると新堀グループから離れて動いた方がフットワーク軽くなってやりやすいのではとも思うのだけれど、それはそれでいろいろ難しそうだなあとも。

演奏はやっぱり個々人のスキルのべらぼうな高さが際立つ音で。生音だったから PA にかき乱される こともなくて、とくに Rock of Mozart のトルコ行進曲で田口さんが抜け出てくるところ、あのうたい方と音色はさいこうだった……!

しかし慢性的にソプラノギターにちょっと聴きとりにくさが。がんがん攻める中低音勢に単音弾きアポヤンドのしかもソプラノギターであそこまで張り合える伊原さんも伊原さんだけど、それでも喰われてる感は否めなかった…… のが惜しいところ。でもきれいな音の出しにくさがはんぱないあの楽器を軽々と扱えるのはさすがだなあと。

NRM は全体で見た目を合わせてきていたのがちょっと残念。おいしい拍子木部分で本物の拍子木が出てきてしまったので、せっかくならそこもギターにすればいいのにとも。

でも全体的にどの曲も叩きやらカッティングやらのパーカッシブな音のいれかたはすごく好き。ギターを普通に弾いているだけでは出せないあの空気感はよいよね。例の『にゃー』もやっぱり全然嫌味な感じはなくて、やりきるとやりきれるというかぶっ飛びきってくれるとぶっ飛びきれるんだなーって思った。学生が真似するとどうしても “真似” になっちゃってね、違和感がね。

休憩なしで 14 曲突っ走る、演奏会でもコンサートでもなく、”ライブ” っていう言葉のほうが似合う空気。よい。とにかくテンションあげてひたすらエネルギィぶつける系のああいう弾き方も、ぼくもしてみたいよね。

勢いで CD を買ったら存外によいものだったし、また何かにつけて聴きに行きたいところ。もう少しお安くなるとうれしいんだけど……。

ペペ・ロメロさんのコンサートで、伝説の銘器トーレスの音を聴いてきた

巨匠ペペ・ロメロさんが、伝説の銘器トーレスでタレガを弾く。そういう垂涎の企画があったから行ってきた。5 月 20 日、トッパンホール。

老成円熟した演奏、と思った。とてもしぶい……! 貫禄というか、正統というか。雑味のないかんじ。

パンフレット

イマドキのギタリストさんは定番曲でも自分なりのうたいかたで揺らしてくるひとがおおいイメージでいるのだけれど、この方はなんていうか…… そういうイマドキの流行り廃りを気にする世界とは別の世界に生きているような、正しく “枯れた” 時代、作曲者であるタレガさんに近い世界に生きている方なのかなって。

個性あふれるわけでもないし、派手さなんてぜんぜんないけど、逆にそれだけ純粋で、正統たる風格のあふれる世界。

トーレス、生で聴くのは初めてだった。タッチの所為か、ばつぐんに音がよいのかといわれればそんなこともないような気もしてしまって、名前が独り歩きしているところは少なからずありそうだなあとも思ったけれど、 でもよく乾いてるのにほんのりやわらかい音がした。

早い曲、明るい曲よりは、ゆったりとうたう曲のほうが相性がよく思えて、気持ちよく聴けた。すごく雑にいうと、こういう楽器でヨークとか弾いたらいろいろとイケてないダメな感じになるんだと思う。

冒険はしない、清く正しい演奏で、モダンなクラシックギターって本来はこういうものなんだって思える、そんな楽器と、そんな演奏だった。

個性あふれる演奏もいいけど、たまにはこういう年季の入ったまっすぐで純粋な音を聴いて、毒を抜きたいとも思った。

イマジン・ドラゴンズのライブで、ドラムサウンドに圧倒されてきた

前のエントリ で書いたブリトニー・スピアーズさんのライブの翌日、5 月 7 日、引き続きラスベガスの Sands Expo & Convention Center 内のホールにて。イマジン・ドラゴンズという方々の、某イベント参加者のための特別な、特に名前のない(たぶん……)ライブに行ってきた。

見えにくいけどドラムだらけ

この方々、来日もしたことがあるようで、どうやら有名らしいのだけれど、イベントの告知を受け取るまで知らなかった……。ぐぐる以上の予習することもなく、行ってよい立場にあったから行ったという、正しいファンの方々から殺されそうなモチベーション。でも行ったら圧倒された。ちょうたのしかった。行ってよかった。

会場の都合上、大がかりな舞台装置は無し。ささやかながらスクリーンと照明はあるものの、基本的にはストレートに “音” で勝負せざるを得ない場。そんな場でもものすごく圧倒的で魅力的なパフォーマンスが繰り広げられて、さすがプロだなーというかさすがロックだなーというか、そんなことを考えながらおなかにずんどこ響きまくる驚異的な音圧を感じていた。

狭くみえるけどちょう広い

盛り上げ方とか流れとか、U2 を彷彿とさせる曲が多くて、系統は似ているのかなあとは思った。でも打楽器の使い方がぜんぜん違って、ステージ上に並んでいるのは、ふつうのドラムセットのほかに、背丈ほどもある大きな和太鼓、小さい和太鼓、バスドラム、追加のフロアタム。ヴォーカルの方は片手にマイク、片手にマレット、ときにスティック、あるいは両手にマレット。

このたくさんの打楽器から繰り広げられる、攻めまくるほどに攻めまくるドラムサウンドがほんとうに気持ちよくて、なぜああも破綻させずにあそこまで圧をかけられるのか不思議だった。鼓膜の限界なんて気にしたくなかった。暴力的な音にもみくちゃにされることが心地よかった。

とりあえず CD をぽちったのだけれど、やっぱり CD には “現実的な音” しか入っていない。あの場で繰り広げられたような限界を無視した音はやっぱりライブでしか聴けない。次にこの方々が日本に来たら、だから今度は自主的に行きたいと、そう思えてうれしかった。

ブリトニー・スピアーズさんの定期公演、Peace of Me に行ってきた

だいぶ前の話になるけど、5 月 6 日、火曜日のこと。ブリトニー・スピアーズさんの定期公演、Peace of Me に行ってきた。

会場はラスベガスの The Axis。Planet Hollywood というホテルの中にあるホール。もともとキャパシティが 7,000 くらいのすごく大きいところだったらしいんだけど、全部で 80 回くらい行われるこの定期公演のため(!)に 360 度の映像投影ができる環境がつくられて、その影響で席が 4,600 まで減ったとのこと。それでも 4,600 てすごいよね。

初めて知ったんだけど、世の中には “Residency Show” という公演形態があるようで、これは一定の期間内に同じ題目で同じ場所で公演を何回も開くものらしい。期間が決まってて同じ題目で何回も開催という意味では、いわゆる “ツアー” ととても似ているけれど、会場が全部同じ、というところがツアーとは違う、みたいなやつ。

この演出かっこうよかった!

正直なところこの公演は『連れて行かれた』というのが事実で、そもそも行くこと自体を当日まで──正確にいえば開演の数時間前まで──知らされていなかったし、そしてぼくはブリトニーさんのことをあまりにも知らない。

とはいえ音楽系のイベントならだいたいは楽しめるので、今から行くよといわれた瞬間にはうれしかったことを覚えている。

実際、派手な舞台装置と派手な映像と派手な衣装がうまいこと組み合わさってて視界全体でたのしめたり、バックダンサのキレがすてきでかっこうよかったり、ホールが “Powered by MONSTER” なだけあってちょうよい大爆音だったり、いろいろおもしろかった。

見慣れたロゴ

最近は大規模な映像投影も当たり前になってきたみたいで、物理的な舞台装置の圧倒的な現実感と迫力を、作り込まれた映像の抽象感が思いっきり引き上げてる感があった。そこにそれ専用の衣装をきた方々のダンスが加わって、そうやって世界がうまいこと作られていた。そして曲ごとにまるっきり世界は変わる。

舞台装置には舞台装置にしかできないことがあるし、映像表現には映像表現にしかできないことがあるし、身体表現には身体表現にしかできないことがある。制作コストと演出効果の関係とか予算の経年変化とかにも考えが及びかけたけど、何にせよ『良いとこ取り』できていた感があって。

最近とんとポピュラ音楽のライブには行かなくなっていたので、ひさしぶりの感覚だった。たのしかった。

調べると『口パク公演』とか言われているらしいけれど、この手のライブでそれを言っても誰も得しないよなあと。演奏会ではなくて “公演” なわけで、音楽だけでなくて演出含めてできあがっているものなわけで、ある意味で『総合芸術』的なものなわけで。売り物は音楽ではなく場であり空気であり体験そのものなので、そんな感じで味わえればよいと思った。

全身にずんどこひびく爆音は大好物なので、こういう音もたまには浴びに行きたい。

須川展也さんのデビュー 30 周年記念コンサートで、変幻自在のサクソフォンを聴いてきた

4 月 29 日、日曜日。須川展也さんのデビュー 30 周年記念コンサートに行ってきた。会場は東京文化会館、もちろん大ホール。

先日ふらりと観に行った 全国職場バンドフェスティバル で須川さん自身が宣伝されて、その日のうちにチケットを手配したこのコンサート。楽しみにしていたその期待以上にとても楽しいコンサートだった。

お久しぶりです

コンサートは二部構成で、第一部は須川さんとクラシックギター ((まさかの鈴木大介さん!))、須川さんとピアノ ((小柳美奈子さん))、須川さん含めたサクソフォン四重奏 ((トルヴェール・クヮルテットさん))とピアノ ((小柳美奈子さん))、という各構成での演奏。第二部はヤマハ吹奏楽団さん ((あいかわらずイケてるパーカッショニストさんが叩くタンバリンがさいこうだった))を迎えて、須川さんが指揮だったりソロだったりでの演奏 ((プログラム上は “吹き振り” がある予定だったけどなくなったようで、須川さんがソロの曲はすべて山下一史さんがタクトを持っていた))。全部で三時間ちかく、いろいろな演奏者、いろいろな編成、いろいろな曲、盛りだくさん。

もちろん大ホール

サクソフォンから三味線の音がしたときはほんとうに衝撃だった。そしてサクソフォンでもグリッサンド(ポルタメント?)ができることを初めて知った。音階を持つ(音階に縛られる)楽器とばかり。

全体的に、技術面でも音色面でも、サクソフォンであんな音出せるのか、という驚きの連続。何をどう吹けばああいう音になるのかさっぱり分からない。以前のエントリ でも書いた通り、吹奏楽に関しては相変わらずほんとうにド素人なので、専門用語は何もわからないけれど、素人目にも “普通ではない” ことは見て取れたし、きっと特殊奏法が山盛り詰まってたんだと思う。

おひる

多彩な表情があって、すばらしい世界だった。余裕のあるさいこうの熱演、とでもいうか、30 年というキャリアが培った音を生で聴けてほんとうによかった。耳を通じて脳に自然としみ込む心地よい時間。

須川さん、6 月にシエナさんとも共演されるようで、行きたいけど、土曜日……。

相模原中等教育学校クラシックギター部の定期演奏会で、とんでもなく奇跡的な演奏を聴いてきた

先日の日曜日、4 月 20 日。

OB でもないのになにかと個人的に縁が多すぎるほどに多い、相模原中等教育学校クラシックギター部さんの定期演奏会。

相模大野高校から相模原中等教育学校に変わって六年目。中等学校の一期生が最上級生となる今年、初めて “中等生” のみによって開催される記念すべき演奏会。回数こそ高校のそれを受け継いで “第 26 回” と銘打ってはいるものの、その意味はほとんど “第 1 回” に等しい。

そんな演奏会、想像以上の演奏が聴けることを楽しみにしていたら、想像以上すぎるほどに想像以上すぎた。奇跡と思うことも厭わない、何の躊躇いもなくぼくはこれを手放しに賞賛できる、ぼくが聴いたのはそんな音だった。

いいデザイン

ぼくがギターアンサンブルの世界に触れてからまだ十数年しか経っていないけれど、それでもそこそこの数の部活の演奏を聴いてきたし、それと同時にたくさんの『お客さん』にも会ってきた。

この世界にかぎらずどの分野のどの演奏会でも、”部活” の演奏会であれば、一般のお客さんがよく言うのは、『かっこうよかった』『うまかった』『すごかった』『きれいだった』というだいたいが至極まっとうで前向きな評価。でもそれはまた同時に、だいたいが『まだ中学生なのに』とか『高校生にしては』とか、そういう暗黙のうちに共有される接頭辞があってのもので、平たく言えばそもそもの評価基準が低い。だからこそ当の学生からすれば、そういう色眼鏡を通さない “まっとうな評価” を得るのはひどく難しいことでもある。

純粋に、音楽としてどうなのか。ギターとしてどうなのか。ギター合奏としてどうなのか。

とはいうものの、組織のアイデンティティとして “部活” という絶対の事実はあるわけで、であれば “たのしいは正義” という側面があるのも事実なわけで、自分の中の評価軸をどこに持つか、どう前提を置くか、どういう姿勢で聴くか、演奏を聴くときはいつも悩ましいのだけれど、今回のこの演奏会は、いつも以上に部活だとか学生だとかそういう能書きのどうでもよすぎるどうでもよさが強烈に身に染みたものだった。

もちろん曲によって出来はばらばらではあったけれど、それでもあの演奏が “学生” である彼らによってつくられた現実を、ぼくは認めたくなかった。だからこそぼくは、あのさいこうの演奏が、ぼくの “友人たち” によってつくられた事実を全力で肯定したいし、心から歓迎して受け入れたい。そう思えることが、ぼくはたまらなくうれしい。

ほんとうに、よいものを観た。

とくに意味のない写真

指揮は言うまでもなく当たり前のようにぶっとんでいる。指揮だけぶっとんでいるのとか、演奏に指揮が追いついていないとか、そんなものはそこらじゅうに転がっているのだけれど、でも演奏があの指揮にがっつり食いついていけている世界が、こんな近くにあったというのは予想外。冗談抜きで奇跡的な完成度。

JGA 界隈の学生指揮者というと、指導陣のクセがうつって “JAEM 風” っぽく見えることがよくあるのだけれど、あの指揮者はもう自分のスタイルを確立して、完全に独立しているように見える。演奏者の食らいつきを余裕で受け流す瞬間、受け入れる瞬間。圧をかける瞬間。抜く瞬間。刺す瞬間、歩く瞬間、踊る瞬間。お互いにわかりきっているからこそできる、ほんとうにリアルタイムの、あの場のあの瞬間でしか作り得ない、一瞬の視線と音と、空気と呼吸だけで信頼できる仲間と意思を伝え合うやりとりのおもしろさ、たのしさ。そんな世界を全身で味わいつくそうとしている筋肉の動きが見える背中は、客席から見ているとほんとうにかっこういい。

そしてそういう指揮者に身をゆだねて、ギターを意のままに爆発させる、演奏者側の一期生。うすっぺらい感動物語とかみせかけばかりのうさんくさい絆とかいう概念があふれるこの時代に、ほんとうにきれいで純粋な信頼関係を見られた気がした。

ぷりぷりでした

至高だったのは、そんな一期生十人によるベートーヴェンのセリオーソ。指揮はなくて、全員が演奏者。自由に、ほんとうに自由に音楽をつくっていて、この演奏会でいちばんこれが好きだった。何にも縛られずに、その場の空気に全身を預けて、流れにのって弾く。お互いもはや目を合わせる必要もなさそうな、目をつぶっていても完璧に意思の疎通がはかれそうな、そんな濃密な空気。

色のまったくちがう細かな断片が散りばめられたあの曲を、よくもまああそこまで分析して解釈して、そしてその通りに表現しきってくれたものだと。厳しい音を弾ききった次の瞬間、まったく違う表情で踊り出てくるなめらかなアルトギターの音。なかなか聴けるものではない。数字だけ考えればパート間の人数比もあまりよくはなかったのだけれど、彼らにとってはこれこそが最高の比率のようで、実際、一分の隙もなく緻密に組み立てられていた印象。

ほんとうに好きで、ほんとうにたのしくて、ほんとうにこれがやりたくて、だからこそいまあそこに居て、いまああいう音づくりができているのだと。そう思わざるを得ない、おそろしくきれいな世界。

こちらはお昼

セリオーソだけでなくて、バルトークも至高だった。コンクール曲だけあって、はっきりと完成されている感がある。コンクールのときもそうだったけれど、コンクール以上に冒頭部で瞬時に惹きつけられたまま、ほんとうにあっという間に終わってしまった。

アラジンはちょうばかっぽい(ほめてる)演出とはうらはらに、しっかり丁寧にきれいだったのでよい意味ですごく裏切られたし、一年前は小学生だった二年生がタッチで身体をがんがんつかえていて衝撃だったし ((よい先輩のよい生き方をみて育ったからかしらね、やっぱり))。Surge III は、意図しているのかいないのかわからないけれど荒っぽさがすごく Surge っぽくて好きだったし ((多摩のより好きだった))、Surge V はコンクールのときよりあっさりしていて、曲調と相まってさわやかさがよく表れていたし ((竹内先生らしからぬさわやかさなので、もともとこってりねちねち弾くべきものではないって思ってる))。

反面、闘牛士が若干曲に負け気味で理想と現実が噛み合ってなかったりとか ((理想が先走って、現実が追い付けていない感じ))、指揮がちょっと猫背だったりとか ((肩を張って顎を引いたらよくなりそう))。車輪の歌がちょっとぐちゃぐちゃ感あったりとか ((これはちょっと残念だった…… メロディが聴こえない。ポップスよりクラシック曲のほうが得意そう))。アレグロがちょっときれいすぎて逆にもやっとしていたりとか ((あのテンポで回っていたのは衝撃だった。鋭い音と甘い音を使い分けて、はっきりきっぱりしたコントラストが出せるようになるともっとよさそう。個人的には原譜で sul G の指定があるところの sul G っぽさにはぜひこだわってほしいところ。もちろん、コンクールをめがけた曲だから、今の時期のこの段階であれこれいうべきものではないのだけれど))。弾く人数が少ないところではそもそも音量がホールに負けている感が否めなかったりとか ((前の方の席だったからよかったけど、後ろまで届いていたか怪しい気が。ソロとかとくに……。技術的な意味で楽器をもっとよく鳴らせば音量も稼げそうではある))。

いろいろあったけれど、総じて、とんでもない演奏会だったと思う。極端に言えば、”学生のギターアンサンブル” の奇跡的な完成形めいたものが見えた気がした、そんな演奏会だった。

だーさら

とはいえ、こうなると来年以降がものすごく、ほんとうにものすごく大変そう。

一期生は、一期生だからこそ、五年間ずっと先頭に立っていた、というか、立たざるを得なかったはず。”先輩” が居ないから、自分たちの前には誰もいなくて、すべてを自分たちで作らなければならなかったし、自分たちが先陣を切らなければならない責務があったはず。

一期生には圧倒的なカリスマ性がある。これはもうおそらく事実で、でもそれはもって生まれた部分以上に、五年間かけて培われた部分がひじょうに大きいと思っている。SSSCGC の創造主たる “神” 、あるいは “伝説” の一期生を、二期生は追いつくだけでなく追いこさないといけない。

一期生の部活に対する方法論は、きっとあの十人だからできたものだし、十人という人数だからこそのものでもありそう。五年間ずっと先頭に立っていた一期生と、四年間ずっと自分たちをひっぱってくれるひとがいた二期生のギャップは、たぶん想像以上に大きい。二期生は二期生で、じぶんたちの方法を模索して、確立しないといけない。

ふわふわのレバー

組織は、創設した代が抜けてからが本番。きっとおそろしく大変だけれど、それ以上におそろしくたのしい世界だから、やりたいようにやって、こらえながらも余裕をもってくぐりぬけてほしいと思う。彼らがコンクールまでどう生きて、定期演奏会までどう生きるのか、新しい伝説になることを、全力で期待したい。

彼らと関われて、ほんとうによかった。この演奏会を作り上げてくれたことが、ひとりの友人として、ぼくはとても誇らしい。

そしていつか、彼らと同じステージに立てたらいいなあと、そんなことを思っている。

ジョアン・リラさんのライブとワークショップで、ホンモノのボサノヴァに触れてきた

ボサノヴァのボの字も知らないぼくが、いろいろと縁があって、ブラジル音楽のライブとワークショップに参加できることになった。4 月 11 日、とくに予定のない夜になるはずだった金曜日のお話。

たまたま、ほんとうにたまたま、友人との雑談のなかで話題にぽっと出てきた今回の件。自分がまったく知らない分野の音楽に触れることのおもしろさは 先日の吹奏楽 でも存分に味わっていたので、二つ返事で参加することに。

ほんわかしてる

会場は、ブラジル音楽界隈では有名らしい MADEIRA。普段は展示場を兼ねているようで、オフィスの 1 階とは思えないステキ空間。天井が高くてガラス張りのフロアに、おおきなヤシの木みたいな観葉植物と JBL のスピーカが共生していた。壁にはこじゃれた絵、あちらこちらに飾ってある紙でできたかわいい小物。その横にひっそりと見慣れた波動スピーカ。

カフェとバーとライブハウスを足して 3 で割ったような、こういうところで好きな音楽をつまびきながらのんびりと語り合えたらさいこうだろうなあと思える、とても居心地のよい場所だった。そして実際そういう時間のためにこの場があるようで、なんというか、あるところにはあるんだなあと。

キャパシティは 50 人ほどで、お客さん同士はお互い知っている顔がおおかったもよう。あちらこちらであいさつ合戦が繰り広げられていた。

波動スピーカさん

『MADEIRA 5 周年記念特別企画 / ジョアン・リラ来日記念スペシャルライブ & ワークショップ』と名付けられた今回のイベント。”ワークショップ” という名の通り、前半は実際の演奏で例示しながらブラジル音楽のさまざまリズムを解説していくワークショップ形式。ギターとヴォーカルがジョアン・リラさん。隣に通訳を兼ねたパーカッションの方。

ブラジル音楽ってサンバとショーロとボサノヴァでしょ、みたいな、ぼくはさいこうにひどくて雑な理解しかしていなかったのだけれど、よもやここまで多彩なリズムがあるとはまったく想像もしていなかった。たのしい。

ジョアン・リラさんが『次は○○のリズムで~』と次々に解説を交えつつ披露してくれるのだけれど、通訳の方の発するカタカナの専門用語が、ぼくの知らない単語すぎてまず聴き取れない。ポルトガル語だってこともあって、そもそもカタカナ化することが難しくもあるのだけれど、それにしてもだばだば未知の用語があふれるように出てきて、しかもぼく以外のお客さんはみんなふんふんと頷きながら聴いている。ブラジル音楽の世界ではある意味で基礎的なところなのかもしれないけれど、白状すると全然わからない。

ざっくり振り返るだけでも、パルチード・アウト、サンバ・ヂ・ハイース、サンバ・ジャズ、サンバ・カンソン、ショーロ、ショーロ・ロマンチコ(サンバ・ロマンチコ?)、ショッチ、マラカトゥ、バイヨン、シランダ、コーコ、などなど。メモしきれていないのもたくさんあった。そういうリズム、ジャンルを、お手本つきで解説してくれる。

こういうイベント

このイベントに来る前から、奥が深そうだということは予想してはいた。でもすごく原始的なものだから、だからこそこんなに細かく分類されているなんて思ってもいなかった。まったく逆だった。

これは低音の流れがすごく大事で、とか。これは輪になって踊るときのだから一拍目に必ず強烈なアクセントが、とか。最近のこれはすごく早いけれど昔はゆっくりだったんだ、とか。これはギターにアクセントはなくて、全部同じ音量で、とか。これはセッションしやすいように、ギターは複雑にしないで、和声もシンプルに、とか。その代わりこれはうたの位置が複雑で、シンコペーションでわざとずらすんだ、とか。北東部からはたくさんのリズムが生まれて、それはたくさんの国からの移民が居たからだ、とか。これはレゲエとルーツがいっしょなんだ、とか。これとこれは楽譜に書くとまったくいっしょなんだけど、演奏するとこんなに違うんだ、とか。

解説だけでなく”ダメな演奏” をわざと挟んでくれることもあって、本来の演奏と聴き比べるとたしかに圧倒的にノれることがよくわかる。日本でよく聴くボサノヴァのリズムはここがおかしくて、ほんとうはこうするんだ、こうだとすごくよいでしょ、とか。

おしゃれ空間

繰り広げられたのは、ぼくが普段よく関わっているいわゆるクラシック音楽の緻密極まりない音作りとはまったく違う世界。もっと人間本来の、根源的、あるいは原始的なところに響くリズム。西洋音楽は “計算” されているけれど、ブラジル音楽はそういう狡猾さはまったくなくて、もっとこう、人間の本能というか魂というか、”欲” に素直に従っている気がして、頭をからっぽにしてふわふわと聴いていたくなる心地よさがあった。

よいものですね。よいものです。たのしいし、きもちがよい。音の流れに身を任せられる感覚、久しぶり。

途中、クラリネットも入って三人になるシーンもあった。客席ですぐ横にいたひとがいきなり呼ばれて戸惑いながらも舞台に上がって初見で吹く、というのも、こういうアットホーム感のある会場ならではなんだろうなあと。ぼくらにはない空気なのでとても新鮮。初見なのに合わせどころばっちりだし。こういう音楽って、どこまで楽譜に書いてあるのかしら? どこからがアドリビタム? ジャズにも思うことだけれど、その場で一回限りしか聴けない音って、すごく貴重で崇高なもの。

ワークショップ中に例示された中には、アントニオ・カルロス・ジョビンさんとか、バーデン・パウエルさんとか、知っている名前もちらほらあって、ギターの独奏ではメジャな曲でも、ただしいリズム感を出そうとしたら、この深遠な世界に触れざるを得なくなるんだろうなあとか、そんな怖いもの見たさも。

休憩を挟んだ後半はライブ。女性のヴォーカリストさん兼ギタリストさんが加わって、三人でのセッション。これもよいものだった。ジョアン・リラさんの男声もグルーヴィですてきだったけれど、女声のゆったり感、浮遊感もきもちがよかった。

"KURO" 宛にサインもらった

そんなこんなで、全然知らない世界に触れて刺激をうけまくった夜。似非クラシック畑の人間が異世界に飛びこんだらこうなった。詳しいことは全然わからないけれど、でもちょうすごかったしさいこうにイケてた。

これ、たたでさえおもしろかったけれど、前提知識があったら絶対にもっとおもしろい。なんでもそうだけれど、お勉強って基礎は地味でも、基礎から一歩先に進んだ瞬間に圧倒的に世界が広がっておもしろくなるよね。

ギターアンサンブルを知らない方々がぼくらのコンサートに初めて来た時の気分も、もしかしたらこんな感じなんだろうなあと思えたのもひとつの収穫。今回のぼくははっきりと “一見さん” だったわけで、それでもひたすら純粋に楽しめた。ぼくらのコンサートに “一見さん” が来たときに、『詳しいことはよくわかんないけど、でもなんかちょーすごかった!』って、そんな感想がもらえるような演奏ができたらよいなあって。

終演後、任意参加のセッションもあって ((イベントの Web には “楽器持参でどうぞ!” などと書いてあった))、それも楽しそうだった。ブラジル音楽のセッションだと知らない世界すぎて混ざりようがないので辞去したけど、ああいうところに飛び込んで混ざって弾けたらさいこうにたのしそうでうらやましい。

ありがとうございました

自分の音楽スキルはどうしたってほとんどが付け焼刃なので、がっちり依拠できる核が欲しいって、こういうの観ていると思っちゃう。趣味を趣味以上にしたいなら、やっぱりお勉強はだいじ。

そんなこんなで、いろいろな方にごあいさつもできて、またひとつコミュニティは広がったすてきな夜だった。機会があれば、またどこかで。

多摩高校ギターアンサンブル部の定期演奏会で、自分の原点に触れてきた

多摩高校ギターアンサンブル部。誰が何と言おうと、何年経とうとぼくのギター活動の原点はここにある。

早いものでかれこれ付き合いも 12 年目。そんな部活の、第 48 回定期演奏会。4 月 5 日、土曜日のお話。これまでの定期演奏会ではほとんど裏にいたぼくだけれど、今回は 8 年ぶりくらいに客席から観賞。

しかしほんとうに、なんというか…… 大きくなったなあと。

ただのオンボロの県立高校の、それもただの部活の、65 人もいる部員全員が、自分だけのギターを持って、日本有数のホールに、1,000 人の観客を相手に堂々と立って、そこで音楽をつくっている事実。もはや当たり前になりつつあって麻痺しているけれど、はっきり言えば、常識的に考えてあり得ない、異常なことだと思う。それでも 3 時間の演奏会を走り切れてしまうのが、彼らのもつエネルギィのすごさなのだろうけれど。

おなじみのホール

おどろいたのが、学生指揮者の彼の驚異的な伸びっぷり。夏以来とんと観ていなかったのだけれど、自分の動きの正しさに不安を感じているかのような当時の姿勢はどこへやら。ある程度決められた動きの中でも、自分の表現欲が存分に身体に出ていたように見えて、清々しかった。

重奏も、とくに編曲、やればできるんだからこれまでももっとやればよかったのにと思えるレベル。編曲だけでなくて演奏もよいバランスで、とくにパートリーダさんたちのは完成度が高かった印象。パートリーダさんだけという編成は、低音勢が多すぎてそもそもバランスが悪いという根本的な問題を抱えているのだけれど、それを感じさせない丁寧な仕上がり。編曲もよかったのかな。

一年生の学年演奏も、この時期でこの仕上がりは想像以上。すごく丁寧だった。最終的にはもっと荒々しくうねりまくってくれるとよいと思うけれど、いまこの段階では、あとで自由に走り回れるだけの堅い基盤づくり、広い土地づくりをきっちり丁寧に進めるほうが大事。そういう意味で、コンクールに向けた途中経過としてはさいこうの状態だったと思えた。

おひる

とはいえどの曲も、このホールでこの演奏となると、ちょっと背伸びしている感も透けて見えてしまって。これだけの多い人数をうまくコントロールできていることは恐るべき統率力ではあるのだけれど、曲作り、表現の面では無難なところで落ち着けたなあというか、落ち着けざるを得なかったのかしらというか、そんな印象は否めない。

そうした中でもいろいろと、変わろうとした気配が感じられた点はうれしい。例えば妙なぴょこぴょこした動きがなくなってきたこと。例えば重奏の編曲を演奏者自身だけで仕上げるようになってきたこと。行動原理を他人の評価から自分の欲へとうつしつつあるようなもので、部活ってもともとそのほうが健全だよなあと思いながら観ていた。自由にしていいといわれて逆にどうすればいいのかわからない、みたいな迷いがまだあったのかもしれないけれど、手探りで動き出してみたその方向はたぶん間違っていないので、恐れずにこのままがんがん突き進んでほしいと思う。

なにかの “形” が先代から何の解説もなく遺されていたとしても、もともとその形が生まれたことには必ず意味がある。その意味を考えて、それが今のじぶんたちに本当に必要なのかを考えて、必要だったら取り込めばいいし、必要でなければ捨てればいい。文化とか伝統とかセンパイとか、いろいろと『なんとなく敬意を表して尊重しなければければならなそうなもの』って世の中にはたくさんあるけれど、その実、今の自分にとってそれが必ずしも合理的な最適解かどうかといわれたら、だいたいそんなことはなくて、ほとんどが不合理だし理不尽だし意味不明だし、その程度のものでしかない。

背伸びも大事だけど、身の丈に合っていることも大事。イキオイだけで登れる高さには限界がある。今までどうだったかはひとまず置いておいて、今の自分にとっていちばんふさわしいのはどれなのか、 地に足をつけて、先を見据えて、一歩一歩踏み固めながら確実に歩を進めるのも、イキオイ以上の最上の価値を生み出すひとつの方法論。

ゆうはん

思うに、前回、56 期の定期演奏会が、それまでの十年近くの流れの “完成系” であり、終着点であり、ひとつの時代の “理想的な終焉” だった。そして 57 期は、その血を継ぎついでいながらもたぶんまったく新しい流れの始まりの代で、きっと進化や発展のきっかけになる代であるように思う。

変化の片鱗はこの演奏会でも観てとれて、だからぼくはさらにこの血を受け継いだ 58 期が、57 期のつくった変化のきっかけを糧に、これからぼくの知らないあたらしいギターアンサンブル部をつくりあげてくれる気がしていて、それをすごく楽しみにしている。

帰り道

この部活にぼくはぼくなりの正義をもって接してきたし、ぼくなりの哲学をもって接してきたけれど、そうした結果、身の回りの変化とともにそろそろ引こうとこっそり思ったのが去年の話。だから今年は、ぼくの知っていること持っていることを、知るべきひと持つべきひとに渡す、そんな自分なりの移行期間だった。

OB さんにとっては、これから起きる変化で部活が “自分の常識と違う” 世界になっていくかもしれないけれど、その変化は全力で受け入れて、現役さんが進みたがっている方向に進めるような、お手伝いするならそういうものを、変化に沿った力添えを。尊重すべきであり尊重されるべき意向は、OB たる自分のものではなく、現役さんのそれ。

そこで求められる “お手伝い” は、もしかしたら “なにも手を出さないこと” かもしれないけれど、もしそうなったらそれはそれで、それはやっぱり現実。部活は現役さんのもので、演奏会は現役さんのもので、時間は現役さんのもので、なにもかも現役さんのもので、それはやっぱり大原則で、部活なんてなにひとつ OB のものではないのだと、部活における “神” はどこまでも現役さんなのだと、ぼくはそういう認識でいる。時間は巻き戻すものではなく、進めるもので、過去は過去、今は今。

そろそろおしまい

ぼくのこういう考え方も、ぼくにとってのぼくだけの正義であって、ぼくはぼくの知っていることしか知らないし、ぼくはぼくの考えられることしか考えられないから、何が正しいかとか、この先どうなるかなんて、なにもわからないし知らないのだけれど。

それでもひとりのお客さんとして、ぼくの愛してやまないこの部活が、新時代をどう生きてどう進むのか。大いに期待できそうで、とても楽しみ。

5 年後 10 年後、そのときぼくはどこでなにをしているのか想像もつかないけれど、人生のすべてをかけて人生の楽しさを心の底から味わいつくしているような、そんな現役さんの演奏会をまた観にいけたらいいなあと思うのでした。

北杜高校ギター部のスプリングコンサートで、日本でいちばんの合奏を聴いてきた

3 月 30 日、日曜日。山梨県立北杜高校さんのギター部のスプリングコンサートに行ってきた。

初めて行った一年前につづいて、今回で二回目。去年はちまっと 4 人での参加だったけど、今回はちょっと幅をひろげて、ぼく以外に、中学生ひとり、高校生ふたり、大学生ひとり、浪人生ひとり、社会人ひとりの、全部で 7 人。ステップワゴンを借りて、みんなでわいわい遠足なノリで。

朝 9 時に集まって、車に乗り込んで、わちゃわちゃしながら 2 時間の道程。調布から中央自動車道を下って、甲府昭和で降りる。去年と同じお店で去年と同じようにみんなでほうとうととりもつ煮をたべたあと、さらに 30 分ほど車で進んで会場の北杜市オオムラサキセンターへ。集合がはやすぎたかなあとも思ったけど、いつも以上にのんびり運転してお昼をのんびりとったので、結果的にはちょうどよかった。

いちねんぶり

地域とともに在ること、そして地元の住民の方々に愛されていること、そういうことをひしひしと感じられるこのあたたかな空気の会場に、ああまた来られたなあよかったなあと、二回目にしてこうもうれしく思ってしまうのは、たぶん同行の友人と同じように、ぼくももはやただのファンなんだろうなあと。座布団に座ってギターをのんびりと聴く時間はとても贅沢。よいものです。

ベタ褒め気味に入ったけれど、実際その実力は折り紙つき。ここ何年も惜しくも最優秀賞を逃していた全国学校ギター合奏コンクールで、前回ついに日本一に輝いたこともあり。去年よりもお客さんが多かったような気もした。

おひる

北杜さん、人前で演奏する機会が、他校のギター部よりもおそらく圧倒的に多い。月に数回以上、それこそ毎週のようにどこかでなにかを弾いている印象がある。

そういう経験が多いのはたぶん北杜さんの圧倒的な武器だし強みだし、演奏からもその “慣れ” が見てわかるくらいには、実際すごくよく作用している。緊張していないわけではないのだけれど、固くなりすぎることもなく、いつもどおりの柔らかい身体で音を作れていそうな、そんな感触がある。

今回の演奏会では、低音勢の安定感がきわだっていた。すこしやんちゃで主張しすぎている感もあったけれど、不動の基盤があることで、上は上で安心してのびのびとうたえて音をつくれるわけで、とてもきもちがよさそう。重奏のバランス感覚も、さいこうによかった。とくに二団体目の、それも前半。あとで話を聴いたら重奏の対外的なお披露目はこの日が初めてだったそうで。基礎力の違いなのか何なのか。

会場案内

一般的に、アルトギターは音質にとくべつに気を遣わないとカシャカシャしてきたない音が出る。よくある学生のアンサンブルは、カシャカシャを大人数で弾いて噪音を楽音で打ち消して『なんとなくきれいっぽくきこえる』というところで終わってしまうのだけれど、対して北杜さんのアルトギターは相変わらずぽろんぽろんときれいに丸い音で、ストレスなく耳に届く。

数にごまかされているのかと思いきや、重奏やソロなどひとりふたりで弾いているところも出音がきれいなので、個人差はあるものの根本的にきれいっぽい。

フォームも手の使い方もきれいで、アルペジオでも右手の安定感がくずれないのが学生らしからぬクオリティ。重奏三団体目でアルトのセカンドを弾いていた彼(顧問の先生のお見送りのときにアルトを担当していた彼)とか。たまたま目に入っただけかもしれないけど、ああいう奏者が弊団体に欲しいなあと。

そして演歌! 初めて聴いたけどおもしろい。津軽海峡冬景色、爆音の低音勢がうまい『荒さ』になってよい演歌っぽさ。ただその反面、プライムより上が『きれいすぎ』てしまって、演歌にしてはお上品すぎる気もした。メロディを生かしてギターならではの曲として作るのか、こぶしの効いたもともとの演歌らしさを求めるのか、方向付けがむずかしそうだなあと。しかしつきつめたら新しい世界に行けそう。よい編曲だったのでぜひいろいろなところで弾いてほしいところ。

最後、A 先生が『生徒主体で、やりたい曲を、やりたい編成でやる』とお話していたけれど、実際その通りの理想的な活動ができていそうで、うらやましいかぎり。

反省会の様子です

さて、演奏とは関係ないところで、今回初めてわかったのは、中学生高校生を遠方に連れて行こうとするには、意外と『保護者の許可』という壁が高いということ。

保護者の許可がおりない事例は、本人の意思と時間の余裕とはまったく無関係に発生するうえに、ぼくは保護者と直接話すわけにもいかない(話せても意味がない)のでつらいところ。 保護者がどのような理由で許可しなかったのかを聴けていないので、杞憂かもしれないけれど。

もっとも、保護者側からすれば、中学生の息子や娘が十以上も歳の離れた謎の社会人の車に何時間も乗って遠くに遊びに行くなんて、ふつうに考えたらそれは心配だろうし、弁解しようがないのも事実。こういうときに『講師』っていう肩書きは有効なんだなあって、ちょっと思った。ぼくは講師ではないので、もちろんそれは使えないけれど。

幻のカルビは売り切れだった

北杜市、ぼくら OB 勢は車が動かせるし定期演奏会の練習もないし金銭的な余裕もあるので時間さえゆるせば気軽に行けるところではあるけれど、本当はぼくはぼくらを起点にして、OB 勢よりも現役同士の交流につなげたいとものすごく思っている。

しかし物理的な距離はいかんともしがたいのが現実で、中高生は車は運転できないし電車で行くにしても金銭的な負荷はかかるし、時期的に定期演奏会の練習があるし、そして時間と意思はあっても保護者の理解がないと、はるばる行くことはなかなかかなわない。

『ふだん行かないところ』で『ふだん聴けない演奏』を聴くって、さいこうに刺激的でさいこうの勉強だと思う。今回は数人だけではあるものの念願かなって現役さんを連れて行けたので、この流れでそのうちミニバス旅行的な公式イベントに発展しないかなあとか、実は考えているのだけれど。

なにはともあれ、次のコンクール。楽しみです。また舞台裏で会いましょう。