学年が上だからといって、下の代に対して “万能” である必要はない。
万能であろうとすることすら必要ないし、万能であるかのように振る舞うことも、万能でないことを隠そうと取り繕うことも、やはり不要である。
舞台に乗ること、乗ってそこで演奏すること。同じ舞台で同じ時間で同じ曲を弾くわけで、だから目的は全員同じ。
それに向けた練習をする中で、”教える” ことが上意下達から抜け出せないのはなぜなのか。
“意識する” に代表されるいわゆる “便利な言葉” は、よくよく考えればこの世界には存外に多い。本質をつかむことなく鵜呑みされたこの手の何やかやは、ぼんやりとした理解とともにひたすらに蓄積されるだけ。だから何かコメントを求められて、取り急ぎ自分の中の “言葉集” からふたつみっつ取り出して声に出してみたところで、それに建設的な要素があるかといえばもちろん否であるわけで。
だから結局、その言葉がほんとうの意味で示す内容──教えようとしていること──の高低感よりも、実は “言葉集” の大きさ自体が、”上” と “下” を無自覚に隔てる要素でもあるのかなあと、外から眺めていて、あるいはウン年前の感覚をひねり出して、少し思う。
言葉で語るよりは、音で語る、うたで語る、感覚を伝える方が、素直に面白い。上も下も右も左もない。
ああいう音が出したいというイメージ、ああいう音楽が作りたいというイメージ、自分の中の究極の形、”理想” があるかないかの違いは、たぶんすごく大きい。妄想でも夢でもいいから、知人友人先輩後輩上司部下家族仲間その他諸々、あのひとみたいな音が出したいなああのひとみたいに生きたいなあという、ある種とても原始的な欲を持つこと。欲を持つことに素直になること。理想の自分をつくること、それに自分を同化させること、あるいはそうなろうと試行すること。
誰にも言う必要はないから、こっそりひそかにそうやって上を見ていられたら、たぶんいつもの楽器もちがう音を出してくれるような、そんな気がしているのでした。