ギターとぼく

初めてギターに触って、もう8年目になった。まだ8年目、とも思うけれど。

ギターアンサンブル、という世界がある。大小さまざまな大きさのクラシックギターをつかって、数十人で合奏する。小さいギターは高い音が出るし、大きいギターは低い音が出る。言うなれば、バイオリンやらチェロやらをつかういわゆる『弦楽合奏』のギター版、とでも言うべきものだ。

さて。

音楽というものが嫌いだったぼくが、ぼくだけの音楽を求め始めたきっかけは、友人——と呼べるほど当時はまだ仲良くなっていなかったかもしれないけれど——の、ほんの些細な、しかし運命的な、軽い一言だった。

——仮入部に行ってみよう、ギターアンサンブル部の。

高校入学直後、とりあえずでもいいから自分の『居場所』を作ろうと、席が近い人々と当たり障りなく行動を共にしておく、ありがちなあの空気の中での一幕。部活は何にしようか、それまで野球部だったけれども高校の野球部ほど本気で打ち込む気はないし、帰宅部はつまらないし、と思案していた中での一幕。

音楽か、このぼくがか、正気か、と、まずは思った。まるで予想しなかった、ぼくにとっては斜め上を行く展開。

ぼくは音楽が嫌いなんだと、思っていたのだけれど、結局、ぼくは彼に従って仮入部に足を向けていた。魔が差した、とでも言うか。ギターなんぞにこれっぽっちも興味はないけれど、少なくとも暇つぶしにはなるし、ほかに行くあてもないから良いかと、まったく積極性を持たない動機。ぼくはとても、さめていた。

ものごとを嫌いになるきっかけも、ものごとを好きになるきっかけも、あとから考えればどうでも良いことだったというのは、よくあることだ。ぼくの場合、音楽を嫌いになりはじめた理由なんて、小学校と中学校の音楽の先生が嫌いだったからという、ただそれだけのこと。音楽の先生に対する嫌悪感が、音楽そのものに対する嫌悪感であると思い込んでいた、あるいは錯覚していた、たぶんその程度のものだったと、今では考えている。

その程度の『嫌い』は、だから本当に簡単にひっくり返る。ほいほいと仮入部に連れて行かれ、ギターという何やら木でできたハコを持たされ、黒い丸と棒の並んだ紙——楽譜という——と数十分にらめっこさせられ、さあみんなで合わせましょうとその場にいた数十人で一斉に音を出させられただけの、お遊戯とも区別のつかないレベルの『遊び』。

かと思いきや、その『遊び』をした瞬間、たぶんぼくはもう入部を決めていた。高校生にもなって弾いたのが『ちょうちょ』であるとか、楽譜の端のイラストがヘタクソだとか、そんなことはどうでもよかった。ああそうか、こういう世界があるのかと、それはなかなかに衝撃的で、とても魅力的で、『音楽』と呼ぶにはほど遠いひどい音しか出なかったけれど、音楽は楽しいと、理解して、実感して、満足した。

そんな出来事から、かれこれ7年と半年が経過した。いまぼくは、そのギターアンサンブル部での経験を経て、社会人中心の合奏団に所属して、高校時代の恩師の元でまだギターを続けている。部活の練習に顔を出したり、楽譜を作ったり、演奏会やコンクールで簡単な手伝いをしたりしている。満足かと聴かれれば、満足だと胸を張って言える。

と、ここで終わればめでたしめでたしなのだけれど、最近、当時のことを思い出すことが多くなった。あの時に戻ってみたいと思ってしまう。今高校でギターを弾いている彼らが、ぼくの戻れない世界と時間を謳歌している彼らが、白状すれば、羨ましい。

なぜ高校に教えに行くのか、という質問に、あまり答えたくない。動機に『逃避』が含まれることを、認めたくないからだ。

自覚はしている。思い出にひたって甘えてばかりいるわけにはいかないし、そもそもそんなことが許されるヌルい環境にいるわけでもない。どうしようもないなあと自覚しながらも、それでも楽な方、甘い方に進みたくなってしまうのは、どうにかしないといけないのだろう。

そんなことを思うのは、最近、ぼくにとって『甘いモノ』であるはずだったギターの世界が、ひょっとしてこれは負担になり始めたのではないかという、漠然な危機感を覚えたからだ。これが事実なら、言い換えれば、縋るべきところがなくなりつつある、ということ。逃げ場がない。

いい加減、次の手をどう打つか、考えないといけない。不器用なのだから、人に何かを言う前に、自分の身の振り方を考えないと。


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