新堀芸術学院の春期定期公演で、ギター合奏と PA について考えた

ちょっと前の話になるけれど、2 月 11 日に、専門学校国際新堀芸術学院に所属する在校生の有志で行われる定期公演 ((“有志” という概念に “定期” はあまり似合わない気がしたけど))に行ってきました。

本家たる新堀ギターフィルハーモニーオーケストラ(N フィル)とか新堀ギターアンサンブル(NE)の公演には何度となく足を運んでいるけれど、新堀学院の学生さんたちの演奏を聴く(観る)のは初めての機会。”学生版新堀” という意味では NKG のコンクールでの演奏が近いのだろうけれど、あれは新堀グループの先生方が指導してるってだけで、新堀学院の学生というわけではないですし。

さて、新堀さんところの学生ということは、将来的に N フィルなり NE なりを(少なからず)目指している方々である(たぶん……)わけで、そういう意味ではこれは N フィルなり NE なりの “あの” 演奏が作られる “途中経過” が観られる演奏会でもあるわけです。学生が “あれ” を目指したときにどうなるのかというのは NKG のコンクールで観てはいたものの、はてさて本家でがっつり学んでいるとどうなるのかなあと楽しみなのでありました。

が。

結局、PA ががっかり品質すぎて、演奏云々以前のところで耳が止まってしまいました。

このエントリは、そんなお話です。ギター合奏と PA について。

パンフレット

エレキギターに代表される “電気的な増幅ありき” の楽器とちがって、クラシックギターはそれ単体で電気的な増幅なく音楽を作れる楽器です ((もちろんどちらが優れているという話ではなく、そういう楽器であるというだけの話です、念のため))。だからクラシックギターを “クラシックギター” として使う以上、本来は PA が無くても音楽として “完成” させられるはずだし、”完成” されているはずでした。

PA が無くても完成されているのだから、それでも PA が登場する理由は、”生音だと小さくて聴こえないから” というごくごく常識的なところに行きつくはずで、そうすると PA に求められる仕事は、既に “完成” されている音楽を、極力 “そのまま拡大する” ことだけです。ここでは過度な脚色は御法度で、『演奏者が作った響き』『演奏者が意図した響き』をそのまま観客席に届けることだけが考えられるべきだ、というのがぼくの考え。

今回の公演で入っていた PA では、全奏者のギターすべてにコンタクトマイクをつけていました ((新堀さんところは今回に限らずだいたいこのスタイルですね。人数が多いときは前列とか主要メンバにだけマイクをつけてあとは生音です))。スピーカから出てくる音は当然、全ギターにつけられたコンタクトマイクの拾った音を、PA 担当さんがコンソールでミキシングしたもの、です。ホールのキャパシティを考えると、生音が届くのは客席の前のほうの一部くらいで、その一部ですらスピーカからの音のほうがおそらく大きく聴こえるから、生音の出番は今回はもはや無いようなものです。

さて。

演奏者が舞台上で、至高の音楽を至高のバランスで作り上げていたとします。演奏者は自分の耳と感覚を信頼して、隣のひとといっしょに、指揮者といっしょに、向かいのひとといっしょに、舞台の空気の中に自分の音をそっと置きます。そこにはギターならではの芳醇な響きがあって、そして独奏では味わえない合奏重奏ならではの重厚さや繊細さがあって、それはさらにホールの自然な残響を伴って会場中にひろがります。その空気の中に自分が居る感覚、空気を自分が作っている感覚こそが至高で、また演奏者のこのうえない喜びと快感と、楽しさの源泉です。

ところが、PA のマイクは、そういうオイシイ響きはあまり拾ってくれません。コンタクトマイクですから、ギターに片耳をぺたっとくっつけて聴いている状態に近い。ギターに密着しているから、拾うのはギターから外に出た音ではなくて、生々しい “振動” そのものです。だから本来拾わなくてよい音、離れていれば聴こえないのに密着しているからこそ聞こえてしまう音、本来楽器として響くようにはできていない音——たとえば布のこすれる音とか、ギターにさわってぺたぺたする音とか、弦をこする音——まで無関係に拾ってしまいます。そしてそれはギターの音だろうがただのノイズだろうが、機材にとっては無関係で、ひとしく拡大されてスピーカから流れてきます。さらにマイクはモノラルで、スピーカは二つあるから、無理矢理説明すると、スピーカのコーンの位置に、ギターにつけられたマイクの位置の空間が全ギター分重なり合って存在している状態、みたいな感じです。そしてそれが左右にひとつずつある。さらにマイクからスピーカにいたるまでに通る機材ごとの特性で、特定帯域ばかりが強調されたりある音が全然拾われなかったりなどの影響も加わります。

だから、舞台上で作られているひびきと、スピーカから流れている音は、コンタクトマイクだけをつかってどうにかしようとする限り、もうまったくの別物です。舞台上で生で作られる音は、舞台上で生で聴いてこそ最高の音で、そしてそれはマイクを通してスピーカから流したときに最高の状態になる音とは、まったく違うものです。人間の耳にきこえるそのままを電気的に取り込むのはひじょうに難しいのです。逆に言えば、人間の耳とそれを解釈する脳は信じられないくらい優秀です。

しかも合奏です。演奏者同士で舞台上でどれだれ連携してどれだけ繊細にバランスのとれた音を出していようが、PA 担当さんのミキサにはギターごとに別々の音として入ってきます。それをどう料理するかは PA 担当さん次第で、客席で聴こえる音は、だから “舞台上でつくられた音” ではなく、あくまで “PA を通した音” でしかありません。PA は、演奏者の緊張感やバランス感覚とはまったく別の次元で存在します。観客に聴こえる音のすべてを操る、いわば神です。

マイクが拾ったそのままを混ぜて流されたら、ひたすらにぐちゃぐちゃです。何を弾いているのかわかったものではなくなります。

だからこそ PA には、精緻なバランスで左右へ振り分けたり、重なって混ざってしまう音がきれいに分離するようにイコライジングしたり、要らない音を削ったりして、舞台の上で作られているはずの音を再現する、そのように “細工” するスキルとセンスと責任が求められます。すでに完成されている音をそのまま届けるというのは、単にマイクから入ってきた音をそのまま垂れ流せばよいというものではないのです。完成されている音を、”そのままであるかのように聴こえるように” 調整してスピーカから流す必要があります。

帰りに食べた

あの組織が、ぼくみたいに『PA がなくても音楽として完成している』という考えではなく、『PA があって初めて音楽として完成する』という考えでいる可能性もあります。クラシックギターを、旧来の “クラシックギター” としての枠組みにとらわれずに、『電気的な増幅ありきの楽器』として新しい使い方を模索しているというのであれば、それはそれでおもしろそうだし、先が楽しみな変化です。

が、そうならそうで、なおさらそれなりの音作りをしてほしかった。あれではただ『生だと音小さいからマイクつけるね』『全部に同じマイクついてるし全部同じ音で出しておけばいいよね』みたいな、雑な思想にしか見えませんし聴こえません。哲学を感じない、みたいなアレです、イケてないです。

意図的にリバーヴをかけていたようにも聴こえました。音楽ホールにおいては禁じ手とも言える気がします。響きって、いやいやそういうのではなくてね、という感覚。もしかしたらフィードバックの結果かもしれないけれど、それならそれで調整はするべきで……。

そしてギタロンの PA がとくにひどかった。ギターアンサンブルを録音したことがあるひとならだれでも一度は悩まされるあの超低音域のぼわつき、耳に迫り来る音圧のことです。今回はあのぼわぼわぼわぼわしたのが大音量でホール中に響き渡ったおかげで、それ以外の音が完全にぶちこわしでした。マイクにマイクの性能以上のことをさせてはいかんのです。

おいしかったです

もしあのコンサートが、中の方々にとって『大成功』で、そして内部で『とてもきれいな音だった』と評価されているとしたら、その中にいる学生さんたちは、本来の “クラシックギター” としてのクラシックギターの音づくり、響きづくりを、まともに学べないことになってしまう気がします。純粋に “クラシックギター” を学びたい方々にとっては向かない環境なのかなと。新しい楽器としてのクラシックギターを学ぶなら、逆にあそこしかないんでしょうけれど。なんていうか、『”クラシックギター” の専門学校』ではなくて、『クラシックギターを含む様々な楽器群を道具として使った総合芸術の専門学校』っていう印象でした。

“クラシックギター” の音づくりはそんな感じだったので、客席にいたまま『マイクで拾われる前の響き』を脳内で取り出すのも難しくて、演奏面でのコメントはとてもしづらいという結果になりました。

ただ、断片的に見えた限りでは、独奏は丁寧だったし、合奏も楽しそうで、たぶん舞台の上の彼らにとっては『よい音楽』ができていたのだと思います。本来は、そういう『よい音楽』を、練習とは比べ物にならないほどの響きで楽しめるはずの場がこういう公演でありコンサートホールであるはずなのだけれど、それが PA に乱されてしまってひじょうにもったいない ((舞台上にモニタスピーカもあったので、演奏者も演奏しにくくなってたのではないかしらという心配もありました))なあと、PA なしで聴きたいなあと、そう思わされるのでした。生音でじゅうぶんひびくホール ((藤沢校の楽友ホールもギターに向いてない音だし、環境がなかなか難しいのかな))で、しっかりがっつり生音で演奏会をしてみてほしいところです。

皮肉なことに、エレキギターやドラム、キーボードなどの演奏、いわゆる “バンドサウンド” のときの PA はとてもイケていました。正直、”クラシックギター” は使わないほうがすっきりするんじゃないの、とさえ。

学生の手作りな演奏会だし、そこにそう多くのことを求めてはいけないのも承知しているけれど、PA 卓に立っていたのがおじさまだったので学生云々はあまり関係がないのかなと。もしかしたら PA 卓のおじさまは学校側から渡される 2 ミックスを単に流すだけでいいですって指示されたホール側の方だった可能性もありますが。

ギター全部にマイクをつけるのではなくて、例えば三点吊りの音をそのまま流すとか、舞台手前にアンビエンスマイクを立ててその音を流すとか、そのほうがずっとよかったのではないかと思います。”マイクの音” ではなく、ぼくは “演奏者の音” が聴きたかったです。演奏者個人個人のポテンシャルは大きそうだっただけに、PA の残念さが全部を残念にしてしまっていて、それがとても残念でした。

ギターは音量の小さい楽器ですし、大きなホールで演奏をするなら PA は欠かせません。それでもよい PA は、PA の存在を感じさせないほどにほんとうによいものです。ギターひとつひとつの音がそのまま大きくなったような、そういう PA も世の中にはたくさん存在します。

演奏を活かすも殺すも PA 次第と、えらいひとは言いました。PA が悪ではなく、演奏の魅力を最大限に引き出すものであってほしいと、そういうことを考えた一日でした。