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氷河期なう?

今年の就職活動は、氷河期の再来だの超氷河期だの言われている。世間一般では。

でも正直、就職氷河期とか、あと不況とか、そういうネガティブな風潮って、それが蔓延するいちばんの原因は『みんながホントにそういう気になっちゃうこと』だと思っている。

その人にとって『初めての』就職活動のはずなのに、『去年より』厳しいと断言できる感覚が、ぼくにはよくわからない。人間が変われば難易度が変わるのは当たり前のこと。去年就職活動をしていた人と、今年就職活動をしている人は、別の人なんだから、比べて何かがわかるものでもないのではないかと。

『ポジティブに生きよう☆』と言うのなら、まず蔓延した『今年の就職活動は厳しい』というよくわからない『空気』を、そんなものは幻想だとポジティブに捉えたい。

去年は去年、今年は今年。厳しいか厳しくないか、世間の評価など、そんなものはどうでもよくて、厳しいと思い込むことをまずやめた方が、視野は広く保てると思う。


就職活動の利点

就職活動というものは始めた当初は厄介なだけかと思っていたけれど、はじめると意外とそうでもないと思える。

自分とまったく違う立場の人と話せるとか、企業がこんなに情報を出してくれるのは今だけだとか、役員が自分の話を聞くためだけに時間を割いてくれるとか、まあそういうまじめなことは今は置いておくとして。

らーめんが食べられるのだ。行く先々で、おいしいのが。

最近は便利なもので、おいしいお店の情報がインタネットですぐ手に入る。口コミに依拠した評価だから、どこまで信用できるか怪しいものもあるけど、でもそのランクで上位のお店に、ハズレはなかなか少ない。

ちょーおいしいらーめんじゃなくていい、おいしいなあって思えるくらいのらーめんでいい。あれやこれやと批評せずに、ほどほどのおいしさで満足できる人間だから、口コミサイトの評価を基準にしてもまったく問題なくおいしいのだ。

さすがに面接前にらーめんを食べるというのは(口臭的な意味で)リスキィだからやらないけど、面接がお昼くらいだったら、朝ごはんを遅めにして面接後に遅めのお昼ごはんとしてらーめん、とかはよくやる。面接は楽しいしらーめんはおいしいし、素晴らしい一日の出来上がりです。

しゅうかつがイヤなら、しゅうかつにくっついてくる、あるいはくっつけられる楽しみを見つけるのも、一つのソリューションです。


IT屋と、テレビの技術屋

ぼくが、IT業界と、テレビ業界の技術部門のどちらにも興味を持っていたころの話。

某テレビ局の人事が、待機部屋でぼくとの雑談の中でふと言ったことがあった。

曰く、テレビは感覚の世界で、ITは理論の世界であると。テレビ業界はたかだか数十秒、数秒の映像に、何十日、何十人もコストを割く、きわめて非効率な世界であると。それに対してIT業界は、いかに時間を短くするか、いかに人を減らすかに注力する、まさに効率化を追求する世界であると。

そして言うには、『どちらも行きたい、という学生がたまにいるけど、でもぼくが考えるにね、この二つの世界って、根本的なところがまったく逆なんだ。だからたぶん、どちらにも適した人間って、ほとんど居ないと思う』と。自分のベクトルがどちらに向いているのか、そこを見極めないと、自分に合わない方向に進んでしまったら悲惨だよねと、にこやかにその人事は語った。

この説明、ぼくはなかなかけっこう気に入っている。もちろんそれぞれの具体的な仕事内容を細かく比べれば、お互いがお互いの性質を内包するところは必ずあるだろうけれど、でもそれは知らないと、体験しないとわからないから、就職活動中のぼくらから見える範囲には、おそらくない。

将来の自分を想像するときはあるけれど、でも結局それは、今考えられる範囲の中での想像でしかない。社会に出ていないぼくらが考えられる『世界』と、実際に社会の中で動いている社会人が考えられる『世界』と、絶対的な差があるのは確実だとおもう。いろいろと学んで経験した五年後に考える『ぼくの将来像』は、今考えられる限界の外にある。今考える『ぼくの将来像』は、『今のぼくが考えるぼくの将来像』であって、『五年後のぼくが考えるぼくの将来像』とはまったく違うものであるはずだとおもうのだ。

だから、どの業界が自分に向いているかを考えるときに、『リアル』な想像は不可能だ。それぞれの『なんとなく』特徴的なところだけを見ることしかできなくて、その『なんとなく』な世界のなかで、どうにかこうにかおぼろげに、『進むべき方向』を探るだけ。でもだからこそ、そうしたときに、例えば先のITとテレビのざっくりとした抽象的な二極構造は、逆にひどくスマートだと、ぼくにはおもえたのだ。


現役SEに言われたこと

ギター関係の先輩に、現職のSEがいる。

この前、練習後に飲み会があって、そこにその先輩が来たので、いろいろと話をした。大学生? そうです三年生ですよ、という話になれば、しゅうかつ? というところに話が飛ぶのはもはや当然の流れでもあり。

志望業界がどこなの、というところから、いわゆるSIerで、なりたいのがITコンサルタントとか、プロジェクトマネージャとか、そこいらですね、というところをこちらから話したのだけど、その先輩はあまり良い顔をしなかった。曰く、コンサルタントやプロジェクトマネージャって好きじゃないんだ、と。

その先輩は現職のプログラマとしてキャリアを積んできているひとで、コンサルタントやプロジェクトマネージャにお仕事を頼まれる側の立場。そういう立場でずっとやってきた目で見れば、端的に言うと結局『上は下を分かっていない』というところに行きつくようだった。

先輩が言うには、何を作るにしても、上が考えたシステムを実際に具現化する際に必要なのは『技術』であって、技術を扱うプログラマである、と。プログラマ、すなわち自分たちがいなければ、いくら上ががんばろうと絶対にモノにはならない。プロジェクトに最終的に一番必要とされる、一番大事な核はプログラマにある、と。

それなのになぜか、どうも見下されている空気がある、と。技術軽視な空気。

どこの会社でもそうだとはいえないにしても、少なくともこういう傾向のある会社はあるんだろう。これはわりとシビアな問題で、キャリアパスが『プログラマ』に終始するような進路は、実際会社説明会に行ってもあまりプッシュされない、というかほとんど存在が見えない。もちろん観測範囲の問題でもあるだろうけれども。

で、一応、大手のSIerは『下流も知らないと上流はできない』という思想のもとで、研修段階や入社後数年はがっつり下流を担当させるところが多いから、ぼくはその先輩に、最近はそういう流れがあって、技術軽視もそこまで強くないのではないか、という話をした。

そこで言い返されたのは、『その思想の場合、下流の体験は上流に行くための、ただのステップでしかない。結局下流が重要視されているわけではないだろう』ということ。技術部分の体験は、あくまで成長の一段階でしかなくて、そこで止まるというパスは誰も見ていないし、会社側も考えていないのではないか、と。結局、そこそこ軽視されている気がする、と。

否定できるところが見つからなかった。わりと揺さぶられた気分。別にその先輩は、ぼくにコンサルタントやらプロジェクトマネージャやらそんなものを目指すなと言いたいわけではない。あくまで自分の考え、こういう立場もあるのだと言いたかったんだと思う。

で、後日。
某大手SIerの最終面接で、ぼくはこの話を振った。先輩にこういう考えの人がいて、ぼくはうまい答えが見つけられなかったのだけれど、現職SEのこの感覚を、会社としてどう考えるか、といったようなこと。

面接官は現職のプロジェクトマネージャ。私の考えだけど、と前置きして話してくれたのは、『プログラマの立場は会社全体として確実に知らなければならない』ことと、『プログラマがどう感じるかどうかもマネジメント次第でもある』こと。プロジェクトにかかわる人たちが、自分の扱われ方をどう感じるか、楽しいと思うか見下されてると思うか、そこもプロジェクトマネージャの手腕の問われるところだから、ぜひそこまで考えられるプロジェクトマネージャを目指してください、ということを言われた。

知らない限り分からないことって世の中ものすごく多くて、でもそれは知らない限り分からないからどうしようもない。ぼくはその先輩の立場と考えを知って、面接官だったプロジェクトマネージャの立ち場と考えも知って、そこから分かったこともあった。あったけど、体験ではないから、まだ、今見える範囲の中で目指すべきところを探すしかなくて、だからぼくは今の時点では、今までどおりのキャリアパスを目指そうと考えた。

先輩の話とか、OBの話とか、社員の話とか。
就職活動の中で、ものすごく重要視されてしまいがちな傾向がある気がするんだけど、失礼な言い方になるのを承知であえて言えば、しょせんその人たちもone of themでしかないと考えている。情報の重みづけをする権利は、自分自身にある。取捨選択も自分ですればいい。ただし、どうなっても責任は自分で取るしかない。

受けた話の活用は、自分自身で考えたい。だからぼくは、ふたりの社員の話を、ぼくなりの考えで糧にして、吸収することにした。がんばろうと思った。


がんばること

まだ起きてる。

時間がズレてきてるなあ。よろしくない。

日経の夕刊にしゅうかつのことが載っていた。がんばらないといけないようだ。

がんばる、というのは意外と難しい。今まで明確になにかをがんばった記憶があまりなくて、ゆるゆるとしているうちに、いろいろなことがうまく進んでしまっているという感覚は否定できない。とよく思う。

高校の部活はがんばってた。でももっとがんばれた気はする。本気を出していた、という気はするけど、本気は本当に本気だったのかしら。

がんばった気がしない、ということは、二つの捉え方ができる。

ひとつは、本当にがんばっていない、という、絶対的な評価。のらりくらり。のんべんだらり。だるだるだるーん。

もうひとつは、がんばっていたけれどあとから思えばそれは『がんばった』に値しなかったという、相対的な評価。分かりやすくいえば、がんばったことを忘れている、というパタン。行為の瞬間は確かにがんばっていたけど、冷静に振り返ると、あれ、別にがんばってなくね、みたいな。

ぼくの場合、後者が多い気がしている。そう思っておくことにしている。前者はあまりにもかなしい。

過去のがんばっていた自分を、今、がんばっていなかったと評価できるということは、それだけ自分が『がんばった』と評価できる閾値が上がった、ともいえるんだろう。成長した、キャパシティが増えた、ということだろう。たぶん。

がんばる、というのは、けっこう思い込みも大きい。

がんばる、と、つかれる、は、ちょっと似ている。身体を動かして、あるいは頭を動かして、なにかしたとき、運動でも知識でも、とにかくなにかアウトプットしたら、それ相応のエネルギィは消費されて身体から抜けていく。

その抜けていったモノが、『がんばり』と評価されるか、『つかれ』と評価されるか、そこはたぶん、どう思い込むかが違うだけ。現象としては、あまり差はない。

だから、満足するかしないか、っていう軸が、何をするにも大事な気がする。満足したら、がんばったと思えばいいし、満足しなかったら、つかれたと思えばいい。

というようなことをもやもや考えているから、だからぼくはあまり『つかれた』というアウトプットが好きではない。しちゃうけども。

ポジとネガ、まあ、そういうことかしらね。

就職活動のなかでは、がんばったこと、努力したこと、苦労したこと、をだいたい聞かれる。

どの経験を選んでも、だいたいぼくの口はぼくの考えている以上にうまくそれっぽいことをしゃべってくれるけど、しゃべりながら、ちょっとむなしく思うのも事実なのです。

結局、その経験を『努力』で評価するか『苦労』で評価するかは自分の判断だし、そしてその判断は、いかに自分がそう思うかっていうところだけが基準。この程度のことをぼくは『苦労』で語るのか。この程度の苦労しかしていないのか。へぼやろうめ。などと。思わないこともないわけだ。

いやはやなんとも。うーん。