多摩高校ギターアンサンブル部の定期演奏会で、自分の原点に触れてきた

多摩高校ギターアンサンブル部。誰が何と言おうと、何年経とうとぼくのギター活動の原点はここにある。

早いものでかれこれ付き合いも 12 年目。そんな部活の、第 48 回定期演奏会。4 月 5 日、土曜日のお話。これまでの定期演奏会ではほとんど裏にいたぼくだけれど、今回は 8 年ぶりくらいに客席から観賞。

しかしほんとうに、なんというか…… 大きくなったなあと。

ただのオンボロの県立高校の、それもただの部活の、65 人もいる部員全員が、自分だけのギターを持って、日本有数のホールに、1,000 人の観客を相手に堂々と立って、そこで音楽をつくっている事実。もはや当たり前になりつつあって麻痺しているけれど、はっきり言えば、常識的に考えてあり得ない、異常なことだと思う。それでも 3 時間の演奏会を走り切れてしまうのが、彼らのもつエネルギィのすごさなのだろうけれど。

おなじみのホール

おどろいたのが、学生指揮者の彼の驚異的な伸びっぷり。夏以来とんと観ていなかったのだけれど、自分の動きの正しさに不安を感じているかのような当時の姿勢はどこへやら。ある程度決められた動きの中でも、自分の表現欲が存分に身体に出ていたように見えて、清々しかった。

重奏も、とくに編曲、やればできるんだからこれまでももっとやればよかったのにと思えるレベル。編曲だけでなくて演奏もよいバランスで、とくにパートリーダさんたちのは完成度が高かった印象。パートリーダさんだけという編成は、低音勢が多すぎてそもそもバランスが悪いという根本的な問題を抱えているのだけれど、それを感じさせない丁寧な仕上がり。編曲もよかったのかな。

一年生の学年演奏も、この時期でこの仕上がりは想像以上。すごく丁寧だった。最終的にはもっと荒々しくうねりまくってくれるとよいと思うけれど、いまこの段階では、あとで自由に走り回れるだけの堅い基盤づくり、広い土地づくりをきっちり丁寧に進めるほうが大事。そういう意味で、コンクールに向けた途中経過としてはさいこうの状態だったと思えた。

おひる

とはいえどの曲も、このホールでこの演奏となると、ちょっと背伸びしている感も透けて見えてしまって。これだけの多い人数をうまくコントロールできていることは恐るべき統率力ではあるのだけれど、曲作り、表現の面では無難なところで落ち着けたなあというか、落ち着けざるを得なかったのかしらというか、そんな印象は否めない。

そうした中でもいろいろと、変わろうとした気配が感じられた点はうれしい。例えば妙なぴょこぴょこした動きがなくなってきたこと。例えば重奏の編曲を演奏者自身だけで仕上げるようになってきたこと。行動原理を他人の評価から自分の欲へとうつしつつあるようなもので、部活ってもともとそのほうが健全だよなあと思いながら観ていた。自由にしていいといわれて逆にどうすればいいのかわからない、みたいな迷いがまだあったのかもしれないけれど、手探りで動き出してみたその方向はたぶん間違っていないので、恐れずにこのままがんがん突き進んでほしいと思う。

なにかの “形” が先代から何の解説もなく遺されていたとしても、もともとその形が生まれたことには必ず意味がある。その意味を考えて、それが今のじぶんたちに本当に必要なのかを考えて、必要だったら取り込めばいいし、必要でなければ捨てればいい。文化とか伝統とかセンパイとか、いろいろと『なんとなく敬意を表して尊重しなければければならなそうなもの』って世の中にはたくさんあるけれど、その実、今の自分にとってそれが必ずしも合理的な最適解かどうかといわれたら、だいたいそんなことはなくて、ほとんどが不合理だし理不尽だし意味不明だし、その程度のものでしかない。

背伸びも大事だけど、身の丈に合っていることも大事。イキオイだけで登れる高さには限界がある。今までどうだったかはひとまず置いておいて、今の自分にとっていちばんふさわしいのはどれなのか、 地に足をつけて、先を見据えて、一歩一歩踏み固めながら確実に歩を進めるのも、イキオイ以上の最上の価値を生み出すひとつの方法論。

ゆうはん

思うに、前回、56 期の定期演奏会が、それまでの十年近くの流れの “完成系” であり、終着点であり、ひとつの時代の “理想的な終焉” だった。そして 57 期は、その血を継ぎついでいながらもたぶんまったく新しい流れの始まりの代で、きっと進化や発展のきっかけになる代であるように思う。

変化の片鱗はこの演奏会でも観てとれて、だからぼくはさらにこの血を受け継いだ 58 期が、57 期のつくった変化のきっかけを糧に、これからぼくの知らないあたらしいギターアンサンブル部をつくりあげてくれる気がしていて、それをすごく楽しみにしている。

帰り道

この部活にぼくはぼくなりの正義をもって接してきたし、ぼくなりの哲学をもって接してきたけれど、そうした結果、身の回りの変化とともにそろそろ引こうとこっそり思ったのが去年の話。だから今年は、ぼくの知っていること持っていることを、知るべきひと持つべきひとに渡す、そんな自分なりの移行期間だった。

OB さんにとっては、これから起きる変化で部活が “自分の常識と違う” 世界になっていくかもしれないけれど、その変化は全力で受け入れて、現役さんが進みたがっている方向に進めるような、お手伝いするならそういうものを、変化に沿った力添えを。尊重すべきであり尊重されるべき意向は、OB たる自分のものではなく、現役さんのそれ。

そこで求められる “お手伝い” は、もしかしたら “なにも手を出さないこと” かもしれないけれど、もしそうなったらそれはそれで、それはやっぱり現実。部活は現役さんのもので、演奏会は現役さんのもので、時間は現役さんのもので、なにもかも現役さんのもので、それはやっぱり大原則で、部活なんてなにひとつ OB のものではないのだと、部活における “神” はどこまでも現役さんなのだと、ぼくはそういう認識でいる。時間は巻き戻すものではなく、進めるもので、過去は過去、今は今。

そろそろおしまい

ぼくのこういう考え方も、ぼくにとってのぼくだけの正義であって、ぼくはぼくの知っていることしか知らないし、ぼくはぼくの考えられることしか考えられないから、何が正しいかとか、この先どうなるかなんて、なにもわからないし知らないのだけれど。

それでもひとりのお客さんとして、ぼくの愛してやまないこの部活が、新時代をどう生きてどう進むのか。大いに期待できそうで、とても楽しみ。

5 年後 10 年後、そのときぼくはどこでなにをしているのか想像もつかないけれど、人生のすべてをかけて人生の楽しさを心の底から味わいつくしているような、そんな現役さんの演奏会をまた観にいけたらいいなあと思うのでした。


1 件のコメント

  1. すごく深くて感動しました。。

    わたしもたまにこういう事を考えて、
    変わっていく事がいやだなーとか思っちゃいますが、

    時が過ぎるのはあたりまえ
    とか、
    それを自分の楽しみにもしよう
    とか

    刺激をうけました!!!

    なるほどなぁ
    くろいさん大人だなぁ(大人だけど)
    とおもいました

    ありがとうございます

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