がんばること

まだ起きてる。

時間がズレてきてるなあ。よろしくない。

日経の夕刊にしゅうかつのことが載っていた。がんばらないといけないようだ。

がんばる、というのは意外と難しい。今まで明確になにかをがんばった記憶があまりなくて、ゆるゆるとしているうちに、いろいろなことがうまく進んでしまっているという感覚は否定できない。とよく思う。

高校の部活はがんばってた。でももっとがんばれた気はする。本気を出していた、という気はするけど、本気は本当に本気だったのかしら。

がんばった気がしない、ということは、二つの捉え方ができる。

ひとつは、本当にがんばっていない、という、絶対的な評価。のらりくらり。のんべんだらり。だるだるだるーん。

もうひとつは、がんばっていたけれどあとから思えばそれは『がんばった』に値しなかったという、相対的な評価。分かりやすくいえば、がんばったことを忘れている、というパタン。行為の瞬間は確かにがんばっていたけど、冷静に振り返ると、あれ、別にがんばってなくね、みたいな。

ぼくの場合、後者が多い気がしている。そう思っておくことにしている。前者はあまりにもかなしい。

過去のがんばっていた自分を、今、がんばっていなかったと評価できるということは、それだけ自分が『がんばった』と評価できる閾値が上がった、ともいえるんだろう。成長した、キャパシティが増えた、ということだろう。たぶん。

がんばる、というのは、けっこう思い込みも大きい。

がんばる、と、つかれる、は、ちょっと似ている。身体を動かして、あるいは頭を動かして、なにかしたとき、運動でも知識でも、とにかくなにかアウトプットしたら、それ相応のエネルギィは消費されて身体から抜けていく。

その抜けていったモノが、『がんばり』と評価されるか、『つかれ』と評価されるか、そこはたぶん、どう思い込むかが違うだけ。現象としては、あまり差はない。

だから、満足するかしないか、っていう軸が、何をするにも大事な気がする。満足したら、がんばったと思えばいいし、満足しなかったら、つかれたと思えばいい。

というようなことをもやもや考えているから、だからぼくはあまり『つかれた』というアウトプットが好きではない。しちゃうけども。

ポジとネガ、まあ、そういうことかしらね。

就職活動のなかでは、がんばったこと、努力したこと、苦労したこと、をだいたい聞かれる。

どの経験を選んでも、だいたいぼくの口はぼくの考えている以上にうまくそれっぽいことをしゃべってくれるけど、しゃべりながら、ちょっとむなしく思うのも事実なのです。

結局、その経験を『努力』で評価するか『苦労』で評価するかは自分の判断だし、そしてその判断は、いかに自分がそう思うかっていうところだけが基準。この程度のことをぼくは『苦労』で語るのか。この程度の苦労しかしていないのか。へぼやろうめ。などと。思わないこともないわけだ。

いやはやなんとも。うーん。


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